病院のベッドで最期を迎えるのがほとんどである現代では珍しく、自宅で死の床についていた祖父は今際(いまわ)、少年を静かに見つめてこう言った。
「いいか、隆宏。夢はいつか必ず叶う。諦めずにがんばれ」
少年は夏休み直前にあった模試で、志望校にD判定を出されていた。これでは夢は夢のままだと、ずっと落ち込んでいたのである。それを気遣っての言葉であった。
「じいちゃん……」
少年──瀬津隆宏(せづ・たかひろ)は何度も何度もうなずき、大好きな祖父を静かに見送ったのだった。
祖父は自分が鬼籍に入る日を知っていたかのような周到さで、後のことを全て知り合いの弁護士に任せていた。そのため、葬儀に関する雑事や幾多もの書類の手続きの全ては、哀惜する喪主をほんの少しも煩わせることはなかった。
遺言により祖父が愛した骨董屋は閉店することとなり、陳列していた品物はなじみの同業者が引き取っていった。代わり、まじめで慎ましやかに生活すれば、大学を卒業して数年はしのげる蓄えと店舗兼住居が隆宏に残された。不動産以外の形見は、店に出さないほど祖父が気に入っていた、赤い水晶玉だけである。
ソフトボール大もあるその水晶は、内包物もひび割れもなく透き通っていて、まるで、赤い空気が球状に固まったかのように思える品物であった。
自然界に赤い水晶なんて存在しない──。
以前、祖父の同業者がこっそりと隆宏に耳打ちしたセリフである。そのことは祖父も承知していたようであるが、気にはしていなかったことを隆宏は憶えていた。
■ ■ ■
たった一人の夜を過ごすようになって、いったい何夜目のことだろうか。ひどくうなされ、跳ね起きるようにして隆宏は目を覚ました。
小さく古い扇風機の風のみだと、湿度が高く風も吹かない八月の熱帯夜は寝苦しい。だが、彼がうなされたのはそれが原因ではない。
それは、夢であった。
目が覚めた今となっては、その内容はすでに思い出せない。だが、神経を逆撫でる、思い出したくもない内容であったはずと確信している。
隆宏は寝起きが悪く、いつもなら、目が覚めてからしばらくは何も考えられない。だのに、ずっと起きていたかのように、頭がすっきりと冴えていた。こんなことは初めての経験であり、それが、夢に対して良い印象を持てない最大の理由なのである。
隆宏は寝間着代わりのシャツの袖で、滝のように流れる額の汗をぬぐう。しかしそれは、あまり意味のないことであった。全身びしょぬれでシャツは体にべったりと張り付き、不愉快さを秒刻みで増していく。
風呂に入って汗を流そうと、たまらず電気からぶら下がるひもに手を伸ばした時である。とある音が玄関から聞こえてきた。
この家の玄関は古い木造家屋に似合いの、磨りガラスが木枠にはまった引き戸である。隆宏の家には呼び鈴がないので、来訪者はガラスが割れない程度にこの戸を叩くしか来訪を告げる術(すべ)が無い。聞こえてきた音は、この音であった。
(誰だ、こんな夜中に……)
特殊塗料でぼんやり光る時計の文字盤を読むと、午前三時を少し過ぎていた。
(幽霊じゃなさそうだな)
そう思ったことに自嘲し、隆宏は忍び足で玄関へ向かう。
電気は点けずに、玄関の様子をうかがってみる。街灯の光で、磨りガラスには妙に頭が長い人影が映っていた。
その人影は、隆宏の存在を確認したようだ。引き戸越しに話しかけてきた。
「やあ、夜分に申し訳ない。急いでいるものだから、明朝を待てずに来訪してしまった。約束も無しで申し訳ない」
声から推察するに、来訪者はどうやら男である。それも、隆宏とそう変わらない少年のように思えた。少年がこんな時間に何の用であろうか。
いぶかしむ隆宏の様子に気づくことなく、影の男はさらに続ける。
「私はダーラ。瀬津老に預けていたものを引き取りに来た。ここを開けてくれないか」
「──あの、祖父が預かっていたものとは何です。俺はそのようなものは預かっていません。それに何なんですか。こんな夜中に」
「失礼なのは重々承知だ。だが、私は自分の物を取り返さねばならない。君は老から、私の目を預かっているだろう? それを返してもらえればすぐにでも退散しよう」
「目!?」
とんでもないことを言い始めたと、隆宏は相手に返事をしてしまったことを後悔し始めた。いやそれよりも、隆宏を起こした夢を呪いたい気分になりかけている。あの時目が覚めなければ、こんな無作法者、無視を決め込んでやれたのに……。
「祖父はただの骨董屋だったんだ。そんなもの……」
「いいや。君は預かっている。まずはこの戸を開けて、私を見てみたまえ。必ず納得するから」
隆宏はこの時ほど、引き戸であることを恨んだことはない。ドアスコープが付いていたら、それで外の様子をうかがえただろう。が、そんな文明的なものを古物の引き戸に求めるのは無理な相談である。また、玄関先をうかがえるような窓も無い。そこから顔を出して追っ払うこともできなかった。
仕方なく電気を点けると、立て付けの悪い引き戸を10センチほど、恐る恐る開けてみる。
まず目を引いたのは、彼の出で立ちである。
暑苦しい夜であるにも関わらず、結婚式場かドラマでしか見ないような燕尾服に身を包み、背の高いシルクハットを目深に被っている。頭が長く見えたのは、これのせいのようである。
しげしげと自分を観察する隆宏の注意を向けるつもりか、ダーラと名乗る来訪者は帽子のつばを持ち上げ、顔をのぞき込んだ。隆宏と同じ年頃の少年の顔が露わになる。と同時に、隆宏は息をのんだ。
「無いだろう、私の左目。ここにあるはずのものを預かっているはずだ」
ダーラは、隆宏が凝視する自分の左目を指さした。本来眼球があるはずの空間には何もなく、真っ黒な穴が穿たれている。
指先はそこから横へと移動し、対の目を指し示す。
右目は白い部分はなく、透き通った赤いガラスがはめ込まれているような、真っ赤な目であった。大きささえ無視すれば、祖父から引き継いだ赤い水晶玉と全く同じである。
「持っているだろう?」
「あの水晶は、ソフトボールぐらいの大きさが……それに、あれは人の目なんかじゃ……」
「ならば証拠を見せよう。持ってきたまえ」
隆宏は迷ったが、相手を納得させて早く帰ってもらおうと、仏前に供えてあった赤い水晶玉をダーラに差し出した。ダーラはそれを受け取ると、隆宏に見せつけるように水晶玉を左目部分にぐいっと押し当てる。
「ぐ、ぐぐ……」
「おい、無駄なことは……」
「黙って、見ていろ……ぐ……がっ!」
かぽん、とこぎみよい音とともに、水晶玉はダーラの左目の窪みにはまってしまった。さっきまで虚だった左目には、右目と同じく赤い眼球が収まっている。
隆宏を目の前にマジックショウをやったとは思えない。ダーラは水晶玉を左目に押し込めている間、顔をずっと隆宏へ向けていたからである。ならば、水晶玉はどこに行ったのだろう──?
「見ろ、私にぴったりだ」
引き戸を大きく開け放つ。鼻を突き合わせるように顔を隆宏のそれに近づけるとダーラは何度もまばたきし、目をくるくる動かした。確かに、ダーラの左目に収まった方がしっくりしており、水晶玉の輝きは数倍増したようである。それがとても自然であった。
「さて」
左目に魅入る隆宏の注意を促すために、ダーラは咳払いをひとつする。
「私の左目を返してもらった礼だ。欲しいものがあれば、何でも用意しよう。何がいいかね?」
動転したままの隆宏は、ダーラのそのひと言で正気を取り戻した。いや、とうとう堪忍袋の緒が切れた、と言う方が正しい表現かもしれない。
「あれはじいちゃんの形見だ! そっちこそ返せよ!」
他人行儀をかなぐり捨てた隆宏の気迫に、ダーラはほんの少し動揺を赤い双眸に漂わせた。が、すぐに小さくうなずく。
「考えようによっては、その主張もっともだ。どうだ、私の左目を共有するということで納得しないか」
「共有って……」
答えは聞けなかった。ダーラが微笑むと同時に、彼の体は真っ赤な空気と変化し、隆宏を包み込んだからである。そしてそのまま、隆宏は意識を失った。
■ ■ ■
気が付くと、隆宏は玄関で眠り込んでいた。開きっぱなしの戸から差し込む太陽の光の眩しさで、目が覚めたのである。「何だったんだ、昨日のは……」
確か、夜中に目が覚めたら来客があって、祖父の形見を寄越せと言っていた。いや、言っただけではない。ソフトボール大ある水晶玉を左眼窩にはめ込んで……それから?
──記憶がぷつりと途切れている。
形見がいつものところにあるか確認しようとしたが、足がもつれて立ち上がれなかった。頭の中がぐらぐら揺れ、壁に手をつき座り込む。
風邪でも引いたかと思ったが、熱っぽくはない。だが、なにやら違和感を感じる。
あたりを何気なく見渡してみると、視界が歪んでいた。見慣れた玄関の風景の中に、見たことがない景色が被って見えている。青い海原、白壁の建物……。テレビか何かで見た、外国の眺望によく似ている。
「なんだ?」
『やあ、目が覚めたか』
頭の中に響く声。それは、昨晩の訪問者のそれであった。
『慣れるまでにしばらくかかるだろう。少しの間だけ我慢したまえ』
「なに……なんだ?」
『私の左目に映る風景が、お前にも見えているんだよ。私は、お前の左目が見ている光景が見えている。共有とはそう言うことだ』
そう、来訪者ダーラは、左目を共有しようと言っていた。だが、そう言うことができるはずがない。声が頭の中で聞こえるということも、あり得ない話なのだ。
『だが、お前は体験している。自分の感覚を信じたまえ。なに、じきに慣れる。心配するな』
それっきりダーラの声は聞こえなくなったが、外国の風景は見え続けている。
じんわりと湧いてくる吐き気をなんとか我慢し、廊下をはいずって冷たくなった布団に潜り込む。吐き気と胸焼けと頭痛で、隆宏はしばらく動くことができなかった。