「──えっ、何?」
私──
「もう。最近どうしちゃったのよ」
今度は眉を下げ、サキは浮かした腰をイスの上に落とす。そして紙コップをとりあげ、ちゅるりとストローでオレンジジュースを飲んだ。
「ぼーっとしちゃってさ。さっきも監督に怒られたばっかじゃん」
「ん……」
私もサキにならって、ほとんど減っていない烏龍茶を口に含む。そしてズキズキ痛む頭に手をやった。
頭のてっぺんには大きなたんこぶができている。これは部活動中に、監督にゲンコツをもらってできたものだ。
もともと口より手が早い監督だったから、紅白試合中にぼーっとしていた私には当然の処置だった。
「んー、じゃないわよ。ホント、どうしたの。私にも言えないわけ?」
「いや、そういう訳じゃないの。ちょっと、寝不足ぎみなだけ。最近、眠れなくて」
「大変ねぇ。あたしなんか、昨日もテレビ見逃しちゃったんだから。大会前だからって、朝も放課後も練習してるんだもん。起きてられないって」
「あ、昨日の見逃したんだ? なんならビデオあるよ?」
「ホント? ミカミえらいっ!」
サキの興味は見逃した深夜番組に出演しているお笑いタレントへ移り、それから半時間ほど過ごして、私たちは長居したファーストフード店を後にした。
──正直に言うと、あの時、サキの興味が他へ移ってくれて助かった。
(心にぽっかり穴が空いて眠れない、なんて言ってもねぇ……)
その穴は日を追うごとに大きくなるくせに、朝、学校に着くとすっかり無くなってしまう。そして、放課後になるとまたじわじわと、不安を携えて大きくなり始めるのだ。
(こんな事言っちゃったら、絶対に疑っちゃうわね……)
ついひと月前、私の父は再婚を果たした。四十を超えたばかりの父が選んだヒトは、二十代半ばの女性。
(絶対に、お義母さんとの仲を疑うわよね……)
実のところ、私と義母は仲がいい。それもそのはず。彼女は最初、私の家庭教師だったのだ。
冷たいと思われるかもしれないけれど、私の誕生と同時に亡くなった母へのこだわりは無かった。逆に、今まで苦労させてきた父をよろしくお願いしますと頭を下げるぐらい、私は新しい母を快く迎え入れ、相手も私を受け入れてくれたのだ。
だから、継母にいじめられるとか、私が意固地になっているとか、そんなことは無い。
なのに、心にぽっかり空いたこの穴がどうしてできたのか、私には判らなかった。
(お義母さんとの確執が理由だったほうが、原因が判るぶん楽かも……)
不謹慎な事を考えつつ自転車を庭先に突っ込むと、玄関をくぐった。
「ただいま」
「あら、お帰りなさい。遅かったのね」
二階の自室へ行く前に、居間を覗く。奥の台所で夕食の仕上げにかかっていた義母は、お玉を持ったまま振り返った。
「うん、サキと話してたら遅くなっちゃった」
「さぁ、早く着替えて来なさい。夕食にしよう」
居間にいた父は、新聞を畳んで立ち上がる。義母を手伝うつもりだ。
私が食事を用意できるようになるまでは、父がその担当だった。私が食事当番を引き受けたあとも、週末にはよく食事を作ってくれた。だから、こういう事に対しての腰は軽い。再婚してからは特に軽く、娘の私が「私の存在忘れてない?」とつっこみを入れたくなるほど、二人はアマアマの新生活を謳歌していた。
「はあい」
当然のごとく母の隣に立った父に頷き返し、私は自室へと駆け上がる。
さっさと着替え終わり、さぁ下へ戻ろうかと電気を消そうとしたところ、窓の外から私の名を呼ぶ声が聞こえてきた。
「志津香ぁ、居るんだろ? カーテン引いてても判るんだぞ」
私の名前を呼び捨てる人物は限られる。大概はサキのように、名字で私を呼ぶからだ。
私を名前で呼ぶ、その限られた人物の中で、不躾に窓の外から声をかけてくるのは一人しかいない。
「ちょっと! 恥ずかしいこと止めてくれる?」
私は窓を引き開け、向こう側にいる人物を怒鳴りつける。
「恥ずかしいって、お前……怒鳴る方がよっぽど声が響くぞ」
隣家の二階には、窓枠に両肘を付いてニヤニヤ笑う
彼とは生まれる前からの腐れ縁だ。隣同士である上に、産院まで一緒なのだから。そして、生まれてからお宮詣り、幼稚園、小学校、中学校、そして高校に至るまで、クラスまでも一緒という、実は呪われているのではないかと疑いたくなるほどの筋金入りなのだ。
ただ今年は、どういう訳だかクラスが別々になった。隣同士ではあるけれど、縁が薄くなったと私は両手を上げて喜んだものだ。
「なぁ、お前んとこの数学って尾形だろ? 確か今日、同じところやったよな? プリント、お前やった?」
真っ赤な顔で言い返せないでいる私に、淳平は言った。
「できるわけないでしょ。今帰ってきたところなんだから」
「そうなんだ? じゃあ、できたら後で見せてな」
久しぶりに声をかけてきたと思ったら、これだ。尾形先生の指名方式で考えると、明日は淳平が先生に指名される可能性が一番高い日だ。それを警戒して、答えを知っておきたいんだろう。
「誰が見せるか。ばーか!」
ベッと舌を出して、ぴしゃりと窓を閉める。もう一度名を呼ばれたが無視して、新婚夫婦が待つ一階へと下りていった。
「志津香、ご近所に迷惑なんだから、夜中に大声で叫ぶのは止めなさい」
さっきの声はしっかり聞こえていたらしい。そりゃあ、まあ、同じ屋根の下に居れば聞こえるほどの大声だったが……。
「はあい」
(淳平のバカタレ。絶対にプリント見せてあげないんだから)
私は心中で悪態をつくだけついて、箸をとった。
(あれ……)
「美味しいね、これ」
「あら、そう? ありがとう」
義母は嬉しそうに微笑んだ。
なんの変哲もないハンバーグを、もう一度口に運ぶ。
(うん、味がある……)
実を言うと不眠だけでなく、食事の味もしなくなっていたことも、最近の悩みだった。
なのに突然、食事に味が戻っている。
私は、数日ぶりに味わえる食事を次々に口へ運んだ。太る、と思うよりも先に、お茶碗に二杯目のご飯がよそわれていた。
「なんだか志津香ちゃん、嬉しそうね」
「え……。そう?」
お吸い物を飲み干すと、ゆっくりと食事をとる義母へ首をかしげてみせた。
「うん。嬉しそう。何かあったの?」
「うーん、特にはないけれど……お義母さんのご飯食べたからかな」
「まあ……うふふ」
本当に嬉しそうに、義母は笑った。もしかしたら私、今までそんなに美味しくなさそうに食べてたのかな……?
味がしないから美味しいとは思えなかったけれど、残すわけにもいかないし、食べなきゃ部活をやってられない。だから無理矢理に飲み下していたことを、顔に出してないつもりだった。
(あちゃ……)
どうやら、しっかり顔に出ていたらしい。最近、父の帰りが早いと思ったら、このことがあったのかもしれない。
私は申し訳ない気持ちでいたたまれなくなった。宿題のこともあったため、早々に自室へ引きこもる。
それから二時間ほどを費やして宿題をやっつけ、寝支度を整えた。
今日はなぜだか気分がいい。久しぶりに心地よく眠れそうな気がする。
美味しい食事でストレスが無くなったためか。それとも、美味しく食事をとれたから精神的に落ち着いたのか。
どちらかは判らなかったけれど、ともかく、今日は眠りたかった。
淳平が私を呼ぶ声は聞こえたが、返事をしない。淳平の声さえも子守歌のように心地よく聞こえるのは、どうしてだろう?
床についてほどなく、私は久方ぶりの深い眠りに落ちた。
自転車を道路に押しだしサドルにまたがったところで、声をかけられた。
「うす」
淳平だった。
「おはよ。どうしたのよ、こんな早くに」
たまたま目が覚めてちょっと出てきた、という訳ではないらしい。なにせ、制服をきっちり着て、自転車を押しているのだから。
「どうしたも何も、ガッコ行くんだよ。制服着てどこに行けって言うのさ」
「遊びに行くんじゃないの?」
「なら、制服なんか着ないよ」
私たちは人気のない道を併走する。最近は私が朝早く出かけるから、こうして一緒に登校するのは久しぶりだ。
なぜだか、ペダルが軽い。
いつもは朝練習が終わった頃に鬱々とした気が晴れるのに、今日はすでに晴れやかだ。
しばらく黙っていた淳平が、ひとつ目の角を曲がったところで口を開いた。
「なぁ、プリント。見せてくれるんだろ?」
「──ちょっと、そのために早起きしたわけ?」
「ん……まぁ、そんなもんかな」
開いた口が塞がらない。私はそれを実演してしまっていた。
やっとあごが動かせた時に、四つ目の角を曲がる。
「あんた……ばっかじゃないの? 少しは自分でやりなさいよ」
「いいだろ、別に。お前に見せてもらいたかったんだからさ」
言って、淳平は大きくペダルを踏み込んだ。グンと引き離される。私も負けずに、ペダルを踏んだ。自転車が並ぶ。
「見せてもらいたいって……クラスに友達いないの?」
「お前……」
淳平は何か言いたそうに口ごもり……大きく息を吸った。
「賢い友達できてたら、お前に頼むわけないだろ」
「なにそれ、もしかして類友しかいないの?」
「大きなお世話だ」
諦めきった顔で笑う淳平はなんだかさみしそうで……でも、久しぶりに気分が晴れていた私は、そのことを深く考えなかった。
「判った。おばかな淳平のために、プリントを見せてあげようじゃない」
「おばかは余計だ」
それから、軽口を叩き合う。ほどなく学校へ到着した。
自転車置き場で淳平にプリントを渡すと、私は体育館の方へ歩き出す。
私を見送っていた淳平は、大きな声で私の名を呼んだ。
「言っておくけど、お前も類友なんだからな、鈍感バカ!」
「鈍感バカとは何よ!」
逃げ去る淳平の後ろ姿を見送りながら、私は小さくため息を吐いた。
バカと言われて腹が立つけど、それよりも、気分がいい。
何故だろう、と首をひねったが……すぐに考えるのを止めた。思考はすでに、淳平と会話を反芻したがっている。
私は、淳平とのやりとりに笑みをもらしながら、足取りも軽く体育館へと向かった。