積雪のためここ数日一歩たりとも屋外へでていないからだろうと、ファンコーニは思っている。屋外へ出られないことはないが、雪のあるなしは、家のまわりを一周するだけでも使う体力が違う。若者であればどうということはないのだろうが、残念ながらファンコーニはその世代からずいぶんと歳をとっている。村から急患の呼び出しが来たときに疲れ切っていてはいけないと、冬の間はできるだけ動き回らないでおくつもりでいたのだ。
そのために体は適度な疲れを知らず、眠り付けづらくなってしまったのである。
隣室の暖炉に、火の気はもうない。早く寝てしまいたいとは思っているのだが、神経が高ぶっているわけではないのに眠気が訪れないのだ。
体位を変えようと小さく身じろぎすると、やけに大きな衣擦れの音が耳に飛び込む。
秋口までは走る風の音や小動物の息づかいに満ちているため、衣擦れのようなちょっとした音に気をとられることが無い。しかし冬世界を形作る銀雪は、矮小な生物の息づかいを遮蔽し、風のささやきを容赦なく押し包む。そんな無音の世界では、微少なノイズもばかでかい騒音となってしまうものなのだ。
「まいったな」
ファンコーニは口先だけでつぶやいて、ブランケットを引き上げた。無音の世界はただそれだけで、眠れない者に対する凶器となる。
深閑とした空気は厚みのないナイフと化し、いたずらに耳を刺激するからだ。
これでは、まだしばらく眠れそうにない。
小さく息を吐いて、もう一度眠りを待とうとしたときであった。
微かな、新雪を掻き分ける音をファンコーニは聞きつけた。
こんな夜中に村はずれを出歩く者は普通いない。いるとすれば、急患がでたために医者を呼びに来た者であるはずだ。
二日前に村へ出かけた時に気になった者を頭に思い浮かべながら、ファンコーニは手早く診療カバンとコートを用意する。
上着を羽織ると同時に、激しく扉が打ち鳴らされた。
「誰か! 誰かいないのか! 助けてくれ!」
逼迫した男の声である。言葉の切れ目にヒュルヒュルと空気の漏れるような音がするのは、息が切れるほどに駆けてきたからにちがいない。
声に聞き覚えはなかったのだが、ファンコーニは急いで扉を引き開けた。
途端、小太りの男が雪とともに転がり込む。
よほど慌てていたのだろう。体にまとわりついた雪の下は薄い寝衣だけで、その他には何も身につけていない。
「どうしました、誰か倒れたんですか?」
扉を閉めたファンコーニは、床に転がったままの男を抱き起こす。
その男は、冬の前に会えないままだったレンツであった。言葉を交わすことはできなかったが、遠目に何度か見かけたことはあった。
あえぐように空気を貪るレンツ自身が病人ではないかとファンコーニが思ったほど、顔色は異様に青ざめている。
「どうしたんです?」
「たっ、助けてくれっ。殺される!」
絞り出すように叫ぶと、レンツはすがるようにファンコーニへしがみついた。
「ともかく、奥へ」
うながされたレンツは、たった数ヤードの距離をほうほうの体で移動する。
ファンコーニはそれを横目で見やりながら開け放しだった扉を閉め、テーブルや椅子で扉が開けられないよう固定した。そして年に数度の鳥撃ちにしか使わない猟銃を引っ張り出して、窓から外をうかがう。
薄曇りであったが、夜空には満月を数日後にひかえた月が皓々と輝いているお陰で、静かな屋外はかなり遠くまで見渡せた。
四方の窓から外をのぞき人影が無いことを確認して、ファンコーニはレンツが隠れる寝室へ向かう。
「誰も居ないようですよ」
その言葉にレンツは顔を上げるが、いまいち信用しきれないようだ。頭からブランケットを被り、恐る恐る窓から外をうかがっている。
「レンツさん、ですよね? どうしたんです。こんな夜更けに、そんな格好で」
問いかけに、レンツは無言だった。隣室の暖炉に火を入れながらファンコーニが根気強く待ち続けると、火が爆ぜ始めた頃になってやっとレンツは口を開いた。
「あいつが──」
「あいつ?」
「あいつが、ここまで……」
それっきり、レンツは再び口を閉ざした。
猟銃を携えて、である。
夜分に比べずいぶんと平静さを取り戻したレンツであったが、顔には恐怖心がべったりと張り付いていた。ファンコーニはその恐怖の元を何度か問いただそうとしたのだが、レンツは頑としてそれを口にしない。ただ『あいつ』がいるかもしれないから、ともかく一緒に小屋へ来てくれと言うだけなのである。
ファンコーニの小屋から伸びる足跡は、村とは逆方向、つまり山頂を目指す方向に一本切りしかない。それは昨晩のうちに付けられた、レンツの足跡である。
レンツが辿った軌跡は、無傷のまま雪上に残されていた。たまに野ウサギやキツネの足跡を見つけることができる以外、その他の生物の痕跡は見あたらない。
つまり、レンツが恐れる『あいつ』という第三の人間の存在を、雪上に見つけることはできなかったのである。
それは、炭焼き小屋の周囲もそうだった。二十ヤードほど距離をとり小屋の周囲を調べてみたが、開け放たれた扉から伸びるファンコーニ宅へ伸びる溝以外に、何者かが居た様子は全くない。さらに言えば、小屋にも人の気配はなかった。
「誰も居ないようですよ?」
「いや、居るはずなんだ!」
無下に断ることもできず、ファンコーニは請われるままに一人で炭焼き小屋へ入り込んだ。
室内は特に荒らされた様子はない。目を引いたものといえば、飛び出してくる直前までレンツが潜り込んでいたらしい毛布が、乱雑にめくれ上がっていたぐらいである。
ファンコーニは広くない戸内を三周分調べまわり不審人物が居ないのを確かめて、レンツの元へ戻る。
誰も居なかったと報告してもレンツは何故か信用しない。
今度は二人揃って小屋を調べる。そこでやっと、不承不承で納得したレンツは、ようやく医師を解放したのだった。
回数を重ねるごとに、レンツは憔悴の度合いが酷くなっていく。
そしてとうとう今回は、ファンコーニの小屋に飛び込んだ途端、床に倒れ伏してしまったのである。
恰幅の良かった体格は見違えるほど細くなり、土気色の肌は老人のノリよりも荒れてしまっていた。
なんとか意識はあるようだが、いまいちはっきりしない。口の先でぼそぼそとなにかをつぶやき続けている。口元に耳を寄せるとその内容は、なんとか聞き取れた。
あいつの足音が聞こえる。あいつが近づいてくる。あいつが俺を殺しに来る。殺しにここまで来た。ここまで逃げてきたのに。逃げても逃げても、あいつの足音が追いかけてくる──。
そんな低語を、レンツはずっと繰り返していた。
彼が恐れる『あいつ』の存在を、ファンコーニは信じていない。いや、存在しないと確信している。
何故なら、その存在を確認したことがないからだ。家のまわりをぐるぐる回っているとか、窓から中をじっとうかがっているなどとレンツは訴えていたが、その痕跡は雪上に残されていない。さらに言えば、レンツが聞こえるという足音を、共にいるファンコーニは聞いたことがなかった。
「──妄想、か」
専門の分野ではないので詳しくはわからないが、精神病の一種だろうと思われた。そうなると、ファンコーニにはお手上げである。設備がどうのよりも、ファンコーニ自身に知識がない。例え知識があったとしても、レンツは大きな街の病院に委ねるべきだと判断するだろう。
それも、一刻も早く。
とにかく衰弱が激しい。一月も経たずにこのようにやせ細っては命が危ない。
前々回の訪問時から、街の病院への入院を勧めてはいた。だのにレンツは頑として、その意見をはねのけ続けたのである。
だが今なら、レンツを病院へ運ぶことができる。充分ではないが、せめてロイバの病院へ運びたいとファンコーニは思った。
しかし、そうするにはまず、人手が必要であった。そりを出してくれるようオリバーに頼めばいいが、頼みに行くまでレンツを一人にできない。気が高ぶった末に自傷したり、小屋を飛び出して雪山に迷い込む可能性がある。
共に村へ行くという選択肢もあったが、レンツの体は弱っているため一人で歩くことができない。それを支えて雪の中を行くということは、ファンコーニの体力的に無理である。下山途中で興奮し、暴れる可能性も考えられた。
「どうしたものか……」
つぶやきもなくなり呼吸も規則正しくなってきたレンツを見下ろすと、急に胃が空腹を訴え始めた。朝食をとる直前にレンツの訪問を受け、昼も過ぎようとする今まで何も口にいれていないことに気が付く。
ファンコーニは、レンツに占領された寝室を静かに抜け出した。そして隣室へ移動して椅子に腰掛ける。目の前のテーブルには、すっかり冷え切って堅くなったチーズが乗ったパンとスープが、今朝の姿のまま鎮座していた。
溜め息を一つ吐いてパンに手を伸ばしたときである。
突然響く断末魔の声に、ファンコーニは弾かれるように立ち上がった。寝室へ飛び込むと、レンツが胸をかきむしるようにして上体を弓なりに反らしている。
「レンツさん!」
「あいつが、あいつが!」
なんとか落ち着かせようとするが、レンツは「あいつが」と繰り返し叫び、ベッドの上で暴れ回る。
「レンツさん、落ち着いて!」
「ぐううっ、が、あぁぁぁっ!」
「レンツさん!」
白目を剥いたレンツは一度大きく痙攣すると口から泡を吐き始め、突如ぐったりと横たわった。
ファンコーニはレンツに呼びかけ、懸命に介抱する。しかし、その努力は報われることはなかった。
それからおよそ三十分後、ファンコーニはレンツの死亡を確認したのである。
頭の中にはぐるぐると後悔が渦巻いている。あのときこうすれば、このようにしておけば、という思いが次から次へと湧き出てくるからだ。
レンツの急逝から四日後に遺体を引き取りに来た夫人からファンコーニに手落ちがあったわけではないと逆に慰められたほど、落ち込んでいた。
レンツは村に移住する一年前から、その奇行に身内は悩まされていたのらしい。
初めの異変は、ただの気のせいだとレンツも思っていたようだ。しかし次第に神経質となり、家族以外は近づけなくなったという。
「あいつが、あいつがって、誰もいないのに怖がるんです。日を追うごとに、近づいてくると言って暴れ出して……。自分から会社を離れると言い出したときは、正直ほっとしたほどなんです。お恥ずかしい話、主人が会社を大きくするために色々なことをやってきました。おそらくそれに対する罪悪感が、今更ながらにでてきたのでしょう」
だからなのか、ファンコーニが下した「ストレスによるショック死」という死因を、やけにあっさりと受け入れた。
更に治療費と迷惑料だと夫人は言って、安くはない金額を渡してきた。ファンコーニとしてはレンツを助けることができなかったし、慰謝料をもらうほど迷惑だと感じてもいなかったため固辞した。しかし、故人の弔いのためにと頭を下げられては押し返すこともできず、受け取らざるを得なくなったのだった。
その厚みのある封筒をサイドテーブルへ投げ捨て、ベッドへ体を潜り込ませる。
ファンコーニの心身は、今まで経験したこと無いほどに疲弊しきっていた。
レンツの言う『あいつ』は、妄想の住人だった。
まさかと思い、レンツが亡くなってすぐに家のまわりを調べてみたが、第三者の存在は確認できなかったからである。また、寝室の出入り口は寝室に繋がる扉と、その向かいにある窓一つしかない。扉の前にはファンコーニが居り、そして窓には内側からカギがかけられていた。
状況からみてもあきらかに、レンツは誰かに殺されたのではなく病死なのである。
『あいつ』は居ない。そうわかっているのに、ファンコーニはそれを受け入れることに抵抗を感じていた。
睡魔の来訪を待ちながら、まとまらない考えを頭の中で好き勝手に泳がせながら寝返りを打つ。
すぐに眠りたいとは思っていない。思考を占領しようとするとりとめのない雑事は煩わしかったが、しばらくは冬の静けさを楽しみたいと思っていた。
だのに、ファンコーニは突然跳ね起きる。
周囲を見回し、窓の外を眺めた。
「まさか、『あいつ』が……?」
ファンコーニの耳は、遠く微かに響く雪を踏む音を捕らえていた。
理由もなくファンコーニは、足音が『あいつ』のものだと確信する。同時に、レンツ夫人の言葉を思い出した。
──罪悪感が、今更ながらにでてきたのでしょう。
「罪悪感、なのか?」
自問自答に声もなく否と答えるも、強く『然り』とする己もいる。
ファンコーニには、心当たりがあった。
村医として穏やかな余生を送るには、過ぎた身だというのか。
「罪悪感?」
耳の奥にへばりつくように響く足音を聞きながら、ファンコーニはひとりごちた。
「何故、私が?」
愛を注いだたった一人の女の、青白くやせこけた最期の顔を思い出す。
「罪悪感を抱くのは、お前の方じゃないか」
ゆっくりと雪を踏みしめる足音は、まだずいぶんと遠くにある。
「私は、愛していたんだ」
──まだ、ずいぶんと遠い。
「罪悪感を持たない。あるはずもない」
──そう、まだ、ずいぶんと遠くだ。
「だから、私は生き残るんだ」
ベッドから抜け出し、猟銃を求めて寝室を出る。
「私は、生き残るんだ」
男の目に、暗鬱な炎が広がり始めていた。