ジルコン

オリジナル小説置き場

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[06]  雪中の足音
[05]  中毒
[04]  天体観測
[03]  月光
[02]  つきのうさぎ
[01]  夢

雪中の足音 /前編

 ファンコーニは聴診器を首にかけると、カルテへ簡単に所見を書き込んだ。
「もう二三日休んだら、無理しない範囲なら動いても大丈夫ですよ。九月に入って急に冷えたから、体がびっくりしたんでしょう」
「そうですか。わざわざ、ありがとうございます」
「そんな、頭を下げないでください」
 制止に構わず老婆はゆっくり、そして深々と頭を下げる。
 聴診器とカルテを足下にある古びた黒のカバンに仕舞うと、ファンコーニは落ちてきた白髪混じりの赤毛を掻き上げた。
 以前ならばきっちりと切りそろえて油で撫で付けていたが、ここ数年はそんなことに気を遣わなくなっている。接するのは気の置けない者たちばかりなので、外見を気にする必要が無いからだ。
 その様子を眺めているのかいないのか、ベッドの上で上半身を起こしたままの老女は自分の思うままにゆるゆると口を動かした。
「先生が村にいらしてくれたお陰で、今年の冬も何とか過ごせそうです」
「それはこちらのセリフですよ。ノリさんたちが居なかったら、六年前に私は凍え死んでいたでしょう」
 ファンコーニはここ、ダルベリア村にとって余所者であった。だが、全く縁が無い訳ではない。既にこの世には居ないファンコーニの母が、この村出身だったのだ。
 第二帝国が立ったことで、誕生して三十年も経っていないこの国はゆっくりと、だが確実に揺れ始めていた。
 それを特に感じていたのが官界や有産階級であるが、ファンコーニが属するベルンの学府にも火種を落としていた。
 影が落ちる世情に煽り立てられ、同時期に発生した派閥争いは加速をつけて紛糾する。権力に執着がなかったファンコーニには周囲に翻弄されて疲労が重畳し、精神的に追いつめられていった。
 そして、妻を失ったのである。苦境に耐える意味も張り合いも、ファンコーニは一気に無くしてしまった。
 そのことをきっかけに、今から六年前、逃げるようにスイスの南部にあるダルベリア村で隠遁生活を決めたのである。
 人好きのする牧歌的な雰囲気を持つ村の性格は、田舎特有の悪習をも持ち合わせていた。その、余所者を嫌う内向さを村民全員が持ち合わせており、できるなら部外者を受け入れたくないという雰囲気は隠されることがない。
 その村の南側に建つ小屋を手に入れることができたのは、運がいいとしかいいようがなかった。
 その小屋に一番近いお隣が、老婆のノリと、孫息子で農夫のオリバー、そしてその妻子で構成される一家である。
 隣とはいえ三百ヤードも離れているのだが、一家は不思議なほどよく面倒を見てくれた。ノリが、幼少の頃の遊び友達であったファンコーニの母のことを憶えていたため、全くの余所者と思わなかったのらしい。さらにファンコーニは、母の父、つまり祖父に当たる人物とよく似ているのだそうだ。以来、ノリとその家族には色々と世話になっていた。
「先生、今日も昼、食べていくだろう?」
 顔を見せたオリバーに誘われたファンコーニは、ノリに暇を告げ、居場所を食卓へと変えた。
 テーブルに付くと待っていましたとばかりに、細君がボイルしたジャガイモにトロトロのラクレットを乗せて出す。
「いつもありがとうございます」
「いいんですよ。うちだっておばあちゃんを診てもらっているんですから。お互い様です」
 にこやかな笑顔を残し、妻女は義母の分らしいもう一皿を持って奥の部屋へ行ってしまった。
 残された男二人は広くないテーブルで顔をつきあわせ、早速食事を開始する。
「先生よ、見たかい?」
「見たって、何を?」
「お隣さんだよ」
「お隣? いいえ、見ていませんね」
「ま、そりゃそうだわな。隣といっても、ずっと上の炭焼き小屋だし」
 言われて、ファンコーニは「ああ」とつぶやいた。今までシメン家の近隣のことだと思っていたのだ。
 確かに、炭焼き小屋とは隣同士である。だが、一マイル半も離れていても隣人といえるのならば、であるが。
「人が入ったんですか? あんなところに越してくるなんて、物好きもいるもんですね」
「何を言っているんだか。最初、あそこに住もうとしていたのは先生だろ?」
「そう言えば、そんなこともありましたっけ」
 とぼけると、壮年の粗野な男は一緒になって笑う。
 そしてファンコーニと自分の皿にお代わりを注ぎ足すと、オリバーは好事家へ話を戻した。
「クラウター爺さんとこに来ていたのを見たんだけどよ、愛想が悪いのなんのって。声をかけても無視で、買うもの買って何も言わずに帰っちまった」
 クラウターは村で唯一の雑貨店を営む、件の炭焼き小屋の持ち主である。村の中心という立地条件もあり、ファンコーニを含め村民は全員、クラウターの店を利用していた。店主自身が話し好きなことがあって、東の家で毎日繰り広げる派手な夫婦喧嘩の理由から、西の家の子どもの永久歯が六本になったことまでよく知っている。つまりクラウターの店は商品だけでなく、噂も常に提供しているという強者の店なのだ。
「では、どんな方なのか聞きに行ってきましょう」
 二杯目の皿をきれいに平らげると、ファンコーニはゆっくりと席を立つ。
 村に住み着く以上、彼は新しい患者候補である。どんな些細なことでも知っておく必要を、ファンコーニは感じていたのだ。
 
 男の名前は、レンツ・ブレガットといった。
 ブレガット商会といえばファンコーニにも聞き覚えがある時計専門店で、ラ・ショードフォンをはじめ全国にいくつも店舗を持っている大きな会社である。
 一個人商店をそこまで叩き上げた男は、数年前に子息へ会社を任せ、自身は相談役として現役を退いたそうだ。夫人は健在だが、跡取りの世話をするからとラ・ショードフォンに残り、付いてこなかったらしい。
 それも当然といえるだろう。体力も落ちてきた熟年期、雪深くなる季節を目の前に、不便な一山村の外れに住み着くのは正気の沙汰でないと言われても仕方がない。三十マイル下方にあるリゾート地のロイバへ行くのならば、細君も付いてきたのだろうが。
「まあ、元気そうだけどよぉ、ちょっくら気ぃ付けてやってくれねぇか?」
 イタリア訛りのクラウター老は並びの良い歯をにぃとむき出して、ファンコーニへ笑いかけた。
「それはやぶさかでないですが、あの調子じゃあ」
 溜め息混じりにつぶやいて、先ほど行き会ったオリバーの一人娘ツェーリエを思い浮かべた。
 ロイバにある小学校から戻ってきたばかりのツェーリエの機嫌が、いつもと違って非常に悪かったのである。
 なんでも、レンツとばったり会ったのが原因らしい。
 ツェーリエとレンツは、まったく接触がなかった。ツェーリエは昼間、ロイバの小学校へ通っているため村に居る時間は短い。そしてレンツの方は、越してきてから一ヶ月以上も経つというのに、ほとんど炭焼き小屋から出ることもない。
 そんな状況であったものだからツェーリエは珍しい者を見たという好奇心で、気軽に話しかけてみたのである。
「そしたら、怒って走って行っちゃったのよ。失礼しちゃうわ」
 びっくりしたんだよと、なだめて家へ帰したばかりだということを、ファンコーニはクラウター老へ説明した。
「正直、私もまだきちんと顔を挨拶したことがないんです。あれでは、私も声をかけた途端に逃げられそうで」
「なぁに、ただの小心者だから気にするんじゃねぇよ。儂からよぉく言っておくから」
 唯一、レンツとはある程度まともな交流があるクラウターがそう約束した。
 レンツにとっては家主でもあり、生活必需品を売ってくれる唯一の人物である。そのクラウターが言えば、多少は反応が軟化するだろうとファンコーニは予想した。
「わかりました。できるだけ話しかけてみます。何かあったときに診療を拒否されると困りますからね」
「そうしてくれぇや。頼んますよ、先生」
「できるかぎりのことはします」
 そう約束したファンコーニだったが、約束を果たすことができなかった。
 なぜならその年は冬の訪れが早く、様子をうかがっているうちに雪に阻まれて、レンツに会うことができなくなったのである。
 
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