ある日、子どもはお父さんとお母さんに尋ねます。
「おつきさまには、ほんとうにウサギさんがいるの?」
それを聞いたお母さんは、子どもの頭を撫でて言いました。
「お月様にはウサギさんは居ないのよ。空気も草もないから生きられないの。月に行った宇宙飛行士さんも見なかったそうよ」
それを聴いたお父さんは、いいや、と首を横に振って子どもの前にしゃがみ込み、目を見てにっこり微笑みます。
「ウサギさんはお月様にいるよ。はずかしくって隠れちゃったんだ」
子どもはお母さんとつないだ手をぎゅっと握りしめ、さらにお父さんに訊きました。
「ウサギさん、ぼくがあいにいっても、かくれちゃうかな?」
「それはどうだろうなぁ。行ってみないと判らないな。もしかしたら、ボウズには会ってくれるかもしれないぞ」
お父さんのその言葉に、子どもはうわぁい、と目をきらきらさせて喜びます。お父さんはその姿を嬉しそうに、お母さんはなんとも納得しきれない表情で子どもを見守りました。
数日経った日の夜のこと。
子どもが眠ったのを見計らって、お母さんはお父さんに言いました。
「あんなこと言って。夢ばかり見て、現実を見ない子になったらどうするの?」
お母さんは、子どもがいっぱい勉強して、偉い人になるのが夢でした。だから、お父さんの言葉が納得できなかったようです。
怒り顔のお母さんに、お父さんは言いました。
「いいじゃないか。子どもなんだから夢ぐらいみせてやれよ。もしかしたら宇宙飛行士になるために、勉強をがんばるかもしれないだろう?」
「でもあなた、あの子は月にはウサギが居ると言ったから、幼稚園でウソツキよばわりされているのよ。あの子が可哀想」
「それは困ったな。さてはて、どうしようか」
お父さんとお母さんは、とてもとても困ってしまいました。
■ ■ ■
あるところに、お父さんウサギとお母さんウサギ、そして子どものウサギがいました。ある日、子どものウサギはお父さんウサギとお母さんウサギに尋ねます。
「おとうさんとおかあさんはくろいのに、どうしてわたしはまっしろなの?」
お父さんウサギとお母さんウサギの毛並みは黒いのに、子どものウサギは真っ白な毛並みです。他のおうちでもそうでした。大人は毛が黒く、子どもは白いのです。子どものウサギは、それがたまらなく不思議だったのです。
子どものウサギの質問に、お父さんはやさしく答えました。
「それはね、お前が外に出たことが無いからだよ」
子どもの頭を撫でるお母さんウサギは、お父さんウサギに続いて口を開きます。
「お父さんとお母さんは、お前が生まれる前は土の外へ出ていたのよ。お日様の光に照らされて真っ黒になっちゃったの。でもある日、地球から人間が攻めてきたの。それ以来ずっと、土の中に隠れなくちゃならなくなったのよ。あなたは外へ出たことが無いからお日様の光に当たることがないでしょ、だから白いの。心配することなんかないわ」
子どものウサギは首をかしげます。
「どうしてかくれなくちゃいけないの? だってにんげんは、わたしたちがつきにすんでいることをしっているんでしょう?」
「人間はね、この月は自分のモノだと思っているんだ。だから、お父さんたちが住んでいるのは好きじゃない。そうすると人間は、お父さんたちを捕まえに来るんだよ」
「わたしもつかまえられるの? つかまえられたら、どうなるの?」
子どものウサギは怖くなって、長い自慢の耳を垂れ、ふるふると震え始めました。そんな子どものウサギを、お父さんウサギとお母さんウサギはぎゅっと抱きしめてあげます。
「お前もお友達も、みんな捕まえられるのよ。捕まったら、とても怖い思いをするわ。だから、お外に出ちゃいけないの。わかった?」
子どもは、わかった、と頷きました。しかし、日が経つにつれて子どものウサギの恐怖は薄れ、代わりに外への興味は増していきます。
ある日、子どものウサギはとうとう外へ飛び出しました。そして二度と、ウサギの都へ戻ってくることはなかったのです。
人間に捕まったのだとか、月の裏側に降る星に当たったのだとか、高く跳ねすぎて月から放り出されてしまったのだとか、いろいろ考えられましたが、結論は出ませんでした。
なぜなら、月の地下にあるウサギの都を出て地表へ子どものウサギを捜しに行った者が、誰一人としていなかったからでした。
そしてそのうち、お父さんウサギとお母さんウサギは、子どものウサギがいない寂しさに耐えきれず、亡くなってしまったのでした。
■ ■ ■
人間の子どもは両親の心配をよそにすくすく育ち、少年から青年に、そしてついには宇宙飛行士になりました。ただ、夢見がちな青年は周りの人間と馴染めず、一人で居るときの時間が多くありました。それでも、同僚とトラブルを起こすことはなく、青年は見事、調査隊の一員に選ばれ、月面に降り立つことができたのです。
その青年が、一人乗りのバギーに乗って調査に出かけた時のこと。
なんという巡り合わせか、都を飛び出し、地上に出てきたばかりの子どものウサギと出会ったのでした。
青年は飛び上がるほどに喜びました。ウサギはちゃんと月に居て、自分に会いに来てくれたと思ったからです。
子どものウサギを抱きしめるために、月に空気はないと教えられていたにも関わらず、青年は邪魔っけな宇宙服を脱いでしまいました。そのため、ただの人間である青年は、そのまま死んでしまいます。空気が無いのだから当然でした。
一方、子どものウサギは、初めてであう人間にびっくりして気を失ってしまいます。そしてその子どものウサギもまた、二度と目覚めることがありませんでした。
なぜなら、青年の様子を監視していた同僚に捕まえられて探査船の中へ連れ込まれ、中の空気に触れたとたん、土塊に変わってしまったのです。
どんなに浄化してある空気でも、地球の空気はとても汚く、無菌状態とも言える月で育った子どものウサギの体は、それに耐えられなかったのでした。
地球に戻った調査隊は、この出来事を世間に公表しませんでした。
空気が無いところで、生き物が生きていけないのは常識です。それを覆すような事実を発表するには、まず調査して、万人を納得させる結果を出さないといけません。
調査隊は様々な手を尽くしましたが、研究は難航しました。いえ、結局何もできなかった、と言う方が正しいでしょう。
どんなにウサギを捜しても、毛の一本はおろか、足跡のひとつも見つからなかったのです。研究対象が見つからなければ、何もすることはできません。この研究は失敗に終わりました。当然、世間への公表もできませんでした。
月の都のウサギたちは、二度と子ども達たち外へ出ないよう、出入り口を塞いでしまっていました。だから、どんなに人間がウサギを捜しても、見つけることができなかったのです。お父さんウサギとお母さんウサギが子どものウサギを捜しに行けなかったのは、こんな理由があったからでした。
出会うことがなくなった、月のウサギと人間たち。
隣人が扉を閉ざしてしまった今、いったい、人間は誰となら触れあえるのでしょうか。
それを教えてくれる者は、月のウサギと同じく、未だ見つかっていません。