まぶたの裏に思い浮かべるのは、はにかんだ笑顔。
可憐だとか可愛いとか、そんな言葉は当てはまらない。
ただただ、いとおしい。
あと一週間もすれば、この顔を間近で見られるようになる。再度それを確認したトグサの口元は、自然とほころんだ。
もうすぐ訓練が終わる。同時に行われていたであろう瀬踏みも。
結果はわからない。いつ知らされるのかも。
軍経験者のサイボーグたちに混じって、トグサは精一杯やってきたつもりだ。生身であることを判った上で公安九課は声をかけてきたのだから、この訓練生の中で一番を取れ、ということではないだろう。だからといって、甘えて手を抜いてもいない。常にトップは目指していた。意気込みに体がついてこないだけなのだ。
それをどう評価するのかは恐らく、教官であるバトー次第である。
どう評価されているのか、トグサにはわからない。
背中を追いかけていたときは、目を見れば何かが判ると思っていた。だが、正面から見据えることができるようになったというのに、判ったことといえば容赦がないということだけである。
あの男は、サイボーグたちと同じ結果を出せとは言わなかったが、結果が思わしくない場合は手加減することなく他の訓練生たちと同じ課題を追加した。
他の皆から「それが空恐ろしい」と、トグサはぼやかれたことがある。
あの義眼を向けられると、義体化しているのにたったそれだけのことしかできないのか、と無言の威圧を感じるのだそうだ。トグサが弱音も吐かず課題をこなすのを見ていると、さらにそれは倍加するようだった。
日程途中で居なくなった者の多くはそのプレッシャーに負けたのだろうというのが、残った訓練生の大方の意見である。
だからトグサには、サイボーグでさえも音を上げる訓練をやり遂げようとしているという、自信がつき始めていた。余計なプレッシャーが無い分、他の者たちよりも有利な立場だったかもしれない。
──やれる。俺はやれる。
トグサの唇の端にそれが現れる。先ほどとは違った、引き締まった笑みだ。
それを表情に乗せたまま、壁から体を引き起こして電話ボックスを出る。すると、声をかけてきた者がいた。
バトーである。
「毎晩楽しそうだな」
「そりゃあ、ここでやってることに比べたら、家族との会話は楽しいよ」
「ま、訓練が楽しいのはマゾぐらいのもんだろうな」
トグサはいつものコーヒーを購入して、バトーの斜め前に腰を下ろす。こうやって話しをするのは二度目だった。
「でさ、お前。俺が居たことに気がつかなかっただろう?」
バトーの指摘にトグサは一瞬、言葉につまった。その通りだったからだ。
「そりゃあ、あの中は外の音聞こえないし、俺は電話に集中してたし……」
「そんなんだから、今日の訓練もみそっかすだったんだよ」
トグサは僅かに唇を曲げる。オフぐらいゆっくりさせてくれ、と言いたかったが、止めた。何を言っても「だからみそっかすなんだ」の一言で済まされるのは明らかだったからである。それでも何か言い返したくて、苦し紛れに一言だけ、言葉を押し付けた。
「なんだよ、極秘のテストかなんか?」
「そういうわけじゃないけどな。ま、ちょうどいい。テストして欲しいんなら、してやるよ。付いて来い」
返事を待たずに立ち上がるバトーの後を、トグサはあわてて追う。テストをして欲しいつもりではなかったが、何をしてくれるのか興味を惹かれたのだ。
■ ■ ■
トグサはバトーの個室に招き入れられた。部屋は特大のベッドと机が一つという、非常に簡素なものである。あとは机の上の端末ぐらいだ。バトーはその端末を有線で電脳とつなぎ、なにやら操作を始めた。
「なにやってんの?」
「ここの警備システムをハック中」
「ハック中って……ここ、政府の設備だろ? やっていいのか?」
「仕事だから、いいんだよ」
「仕事って、教官だろ?」
「言っておくが、俺は九課の人間だからな」
告げられて、一気にトグサは緊張する。バトーは言外に言っているのだ。今まさに犯罪が行われようとしている、と。
そんなトグサに、バトーは端末へつないだ有線プラグを差しだした。
「見るか?」
見ないわけにはいかなかった。トグサはこれを見るために、付いてきたようなものなのだ。
伸びっぱなしになっている後ろ髪をかき上げ、受け取ったプラグを首の後ろのジャックへ差し込む。ひりりとした独特の感覚が、脊椎を伝わって背中を駆け上った。まるで体がゼリーになり、その背中に五指を立てられて上へ掻き上げられているような感触である。
いつものこの感覚に、トグサは未だ慣れないでいた。不快ではない。だが、抵抗できない素っ裸の自分がいいように扱われそうな、小さな恐怖が緊張をあおり立てる。それが居心地悪いのである。
それらを我慢しながら、一気に流れ込もうとする情報を何とか制御下に置く。パンクしない程度に高速で情報を整理しようとするが、それが大量すぎて少し時間がかかりそうだった。
「これぐらい一気に片付けろ」
「俺の電脳は一般市民並みの容量しかないの。いいの乗っけてる教官と一緒にして欲しくないね」
「しょうがねぇなぁ」
いやみったらしく盛大に息を吐いたバトーは、トグサに流した情報をいったん引き上げると、瞬く間に圧縮して送り直してきた。
「とりあえずは、一番から十四番まで解凍しろ。あとは俺の話を聞きながらでいい」
その手際の良さに、トグサは素直に感心の目を向けた。
「やっぱ、いいの使ってると違うなぁ」
「いいもの使ったって、それを使いこなせるのは俺の腕なんだよ」
「口ではなんとでも言えるよな。検証できないし」
「お前ね、電脳戦は俺の得意分野なんだぞ。お前と同じモノ乗っけてても、同じことできるんだよ。で、できたのか?」
「どうぞ」
解凍したファイルから出てきたファイルを実行させると、どこかからの中継画像が電脳スクリーンに展開された。防犯カメラの映像らしい白黒の画面には、二人の人物が写っている。映像が荒いのではっきりとは判らないが、一方にトグサは見覚えがあった。この施設の職員である。
「これは?」
「うちの第六ベンダールームのライブ映像」
先ほどのベンダールームとは別の、この階から4つ上にある場所である。
「ここの情報を外部にリーク中の現行犯。右のがここの下っ端職員。で、自販機いじってるのが、出入り業者を装った運び屋」
「──何の?」
「タイミング的に、お前たちのデータかな」
「俺たちのデータなんか、何するんだよ」
「曲がりなりにも、九課のメンバー候補だからな。将来の敵はチェックしておいて損はないってことだろう」
「なんだよそれ。ここのデータ管理はどうなってんだ? あっさり抜かれて」
「こっちのデータバンクに穴はなかった。どうも、地道に情報収集してたみたいだな。だから手に入れたのは、盗撮した顔写真と無駄話から拾った個人情報程度だろう。それでも、顔を変えようがないお前にとっては、特に致命傷だな」
バトーの言葉に、トグサのまなじりがつり上がった。バトーが言わんとしていることが判ったからである。
つまり、家族に犯罪者の手が伸びる、と。
「なんだよ、それ!」
「じゃあ、どうしたい」
「捕まえる! それ以外の選択肢なんか、あるもんか!」
満足そうに口の端を引き上げたバトーは、ファイルを一つ、トグサに転送した。
「じゃあお前は、コイツをゴーストハックして足止めしておけ」
バトーが指定したのは、職員の方だ。
「俺が?!」
「とっかかりはそのファイルを使え。俺は運び屋の方をふんづかまえてくる」
有無を言わす隙を与えることなく、バトーは部屋を出て行く。送りつけられたファイルを目の前に、トグサは小さくうなった。
― 続 ―