途絶えたとは言っても、休暇をとり実家へ帰っただけだ。
そう、『帰っただけ』。
だのになんだ、この胸騒ぎは。西脇が休暇に入った日から降り続く雨の所為であることは、まずない。そんな感傷に浸れるほど、俺は暇でもヤワでもないからだ。
そのくせ、一時間あれば目を通すことのできる量のファイルが、まださばけないでいる。あまりの手の遅さに、氏木に体調を心配されるありさまだ。
「──ちっ」
俺は手を止め、大きくのびをしつつ煙草と灰皿を引きずり寄せる。ついでに時計を見れば、もうすぐ日付も変わる頃となっていた。氏木たちを叩き帰して、もう三時間も無駄に潰したことになる。
「何やっているんだ、俺はよ」
独りごちて、煙草に火をつける。肺いっぱいに吸い込んで、真っ白な煙を天井に向けて吐き出した。
だが、言いしれぬ不安はぬぐえない。
それもそのはずだ。休暇の取り方が、まずおかしい。あいつは何も言わなかったが、委員会からの指示であることを、俺はすでに掴んでいる。
何故、一個人の休暇を委員会が指示する。それも、十日だなんて長期を国会期間中に。
まさか、あの時のように誰かが裏で糸を引いていないか? 岩瀬をSPとして貸し出した時の愚を、忘れたとでも?
「まさか。そこまでバカじゃない。あの宮沢がいるんだ」
手持ちぶさたの左手は、知らず携帯電話を握りしめていた。しばらく見下ろして、もう一度ポケットに仕舞う。
電話をかけるだけなら簡単だ。伊達に西脇を誘惑したのでは無いのだから。
何かあればこちらから連絡する。そう言った。だから俺からは連絡を取らない。
「──くそっ」
本当に、伊達でも酔狂でもない。なのになぜ俺は、あいつの無事を確認するためだけに電話をかけることさえできないのか。
「ガキか、俺は」
ポケットの中で携帯をもてあそんでいた手を空にして、引き出そうとしたときだ。突然、呼び出し音が鳴り響く。慌てて表示を見れば、西脇からだった。
俺はなにやら照れくささを感じながら、携帯を耳にあてる。
「どうした?」
──無音。
「西脇だろ、どうかしたのか?」
──無音。
「おい……」
「ないとう、さん?」
「本当に西脇か」と問いかけたくなるほど弱々しい声に、背中が粟立つ。知らず、携帯を握る手に力が入った。
「おう、俺だ。どうした」
「俺……すみません。特に、何も……」
そのまま言葉が途切れるが、まだ通話は途切れていない。しかし、何時途切れてもおかしくない状況に思われた。俺は努めて平静さを演じつつ煙草を灰皿にねじ込み、身の回りのものをかき集める。
「どこだ。お前、今どこにいる?」
しばらくの無言のあと、西脇はぽつりと都外のホテルの名を口にする。
「いいか、そこから動くな。今行く!」
上着をひっつかむと、そのまま部屋を飛び出した。
「お預かりします」
一礼したドアマンは、つんとすまし顔で俺から取り上げたバイクを押して行ってしまった。
それを見送った俺は、ロココ調の玄関を見上げる。
「冗談じゃねぇぞ……」
ナビに促されるままにたどり着いた場所は、数年前に話題となった郊外に建つホテルだった。
欧風の城を模したこのホテルは、建物の広さと調度の質にも金をかけた金満家向けのものだ。まかり間違っても、俺のような濡れ鼠のライダースーツ姿の者や、西脇のようなしがない公務員が出入りするような場所ではない。
「何やっているんだ、あいつは」
大きく息を吸って胸を張る。湿る前髪を掻き上げると、俺は建物に突入した。
目的の部屋は、五階の一番端にあった。
呼び鈴を押してしばらく待つ。もう一度押そうとしたとき、不意にドアが細く開いた。
「内藤、さん?」
化け物でも見たかのように目を見開いて、西脇は俺を見下ろしている。その憔悴しきった顔を見上げ、俺は眉根を寄せた。
「──酒くせぇ」
俺の言葉に反応しない。代わりに西脇は、何度か目を瞬かせた。
「本当に、内藤さん?」
「おう、俺だ。中に入れろ」
「夢じゃ、なかったんだ……」
「夢?」
「電話をかけた夢を見たと思っていました」
「そんなタマか、お前が」
西脇は一度ドアを閉めると、今度は大きく開いて俺を招き入れてくれた。
俺の背後でドアが閉まると同時に室内は真っ暗となる。唯一の光源は薄暗いフットライトだけだ。
「西脇、電気は?」
「点けたくないんです」
西脇はどんどん先へ行ってしまう。目が暗さに慣れていない俺は、壁づたいに西脇の気配を追いかけた。
壁づたいにじりじりと進みながら、やっと一番奥へ行き着く。
ここが一番、アルコール臭が強い。一歩踏み出すと、つま先に何かが当たった。拾い上げて見てみると、見覚えのあるラベルが貼ってある。飲んだことはないが、高い酒だということは知っていた。宝くじでも当たらない限り、手を出そうと思わない酒だ。よくよく見回せば、形は違えどクソ高い酒の瓶が種類を問わずそこかしこに転がっている。おそらく、どれも空だろう。
「なんて飲み方してやがる。もったいねぇ」
やっと闇に慣れてきた目で見回すと、どうやらここはリビングらしかった。ソファや対面式の簡易キッチンなどがぼんやりと見える。建物の外装とは裏腹に、内装は比較的近代的なものが揃っていた。
壁一面ガラス張りの窓際に突っ立っていた西脇は俺の声に反応して、足下に転がっている空き瓶を拾い上げる。
「キャビネットにあるのが、これだけだったから」
「だからって、あのなぁ」
「呑みたかったんです」
西脇は瓶をソファへ投げ捨てると、よどみない足取りで俺の真正面まで歩み寄る。
「呑んで、逃げたかったんです。でも、内藤さんが来たから、逃げられなかった。やっぱりこれが、現実なんですね」
「お前が電話をかけてきたから来ただけだ。大体、何から逃げたいんだ」
「見合い」
思わず息を飲んだ俺に構うことなく、西脇はいつになく饒舌をふるう。
「親父が委員会に圧力かけて、俺に休暇とらせて。で、ずっとここに缶詰で、見合いばっかりやっていたんですよ。毎日一人ずつ。いや、今日は二人か」
俺を置いてけぼりに、西脇はくすくすと嗤う。
「俺は親父から逃げられない。親父が用意した見合いからも。だから、俺は酒で逃げたかったんです」
「──弱いな」
「弱いですよ。だから班長なんてやっていても、誰も守れない。この間も、内藤さんに怪我をさせている。だから言われました。家庭でももって守る者をつくれって。そして、DGを辞めて跡を継げと。それが俺の限界らしいです」
どこかのボンボンだったわけだ。身近にいなくても相手の動向を知ることが出来る親を持ち、超高級ホテルに軟禁してでも政略結婚を求められるほどの。
「そうか」
よくもまぁ、今まで俺をだまくらかしていたもんだ。俺のことを狸だ何だとぬかすくせに、自分の方がよっぽどの狸じゃないか。
何か一言、嫌味を言ってやりたかった。だが。
「──そうした方が、お前のためかもしれんな」
考える暇もなく、するりとそんな言葉が滑り出た。
わだかまりは、当然ある。手放したくない気持ちもだ。この間西脇に告げた言葉に、嘘偽りはない。
だが何よりも、西脇の安全を優先させたい気持ちが上回った。
「だから……」
「だから?」
その時初めて、俺を威圧的に見下ろす西脇の目に気が付いた。鈍い光を放っているようにみえる瞳に、俺の足がすくむ。
「だから、見合いして結婚しろと?」
一瞬のうちに、西脇は俺の襟首を掴みあげた。つま先立ちになるほど引きずりあげられて、のどが締まる。俺はあえぐように空気を吸い込むだけで精一杯だった。
「内藤さんが、そんなことを、どうして?」
「ぐっ……」
「そんなこと、言う人だと思わなかった」
「西脇っ」
「内藤さんは、親父と違うって、そう思っていたのに。結局、同じなんですね」
感情のない語彙を紡ぎ、剣呑に目をゆらがせる。だが、瞳は俺を映してはいなかった。見えているのは、俺の後ろに見る誰か。
訴えるでもなく、一人ごちるでもなく。ぼそぼそと吐く言葉は次第に震え、襟首を締め上げる手に力が入っていく。その手を離そうともがくが、鋼のようにびくともしなかった。指先が滑り爪で西脇の手を傷つけてしまっても、気にする様子もない。
それは、普段の理性的な西脇ではなかった。自分の言葉に激高し、己をあおり立てている。自分が吐く毒に犯されながら、それもわからず、さらに毒を湧出させるという悪循環にどっぷりと浸りきっていた。
「どうしてそう、俺をどうにかしたがるんですか、父さんっ」
「たつ……っ」
「今まで放って置いたんだから、今更なこと言わないでください!」
「め、を」
「見合いなんかしなくていいって、言って……!」
「さま……せっ!」
拳を西脇の腹に叩き入れる。自由が効かない身では、手加減はできなかった。
腰を折るように崩れる西脇とともに、解放された俺も床に倒れる。
俺は咳き込みながらのどをさすり、うずくまる西脇の傍に膝をつく。そして西脇の髪を無造作に掴むと、無理矢理顔を仰向かせた。
「巽! 俺は、誰だ!」
まだ焦点の合っていない、西脇の鼻先まで顔を近づける。
「俺はお前の父親なのか?! それとも父親の代理か?!」
そして、口付けた。
深く口腔をまさぐって、未だ残る酒気を舐め取る。
最後に下唇へ犬歯を突き立てると、口の中に赤さびのにおいが広がった。
「──父親は、こういう事をするのか。それとも、これが父親か?! 答えろ、俺は誰だ!」
ぼんやりと俺を見つめる西脇の瞳に光が戻る。そして顔をくしゃりと歪ませた。
「内藤、さん……」
「そうだ」
「内藤さん……っ」
抱き寄せると、西脇は俺の肩口に顔を埋めた。
目が覚めると、キングサイズというには広すぎるベッドに、俺一人だけが寝かされていた。
手探りで眼鏡を捜しながら、昨夜のことを思い出す。
西脇は、答えをくれた。ならば、後はもう決まっている。
「──内藤さん?」
ドアが開くと同時に、西脇が顔をのぞかせた。身を包む高そうなスーツと切れた唇以外は、いつもの西脇に戻っている。
その西脇は大股で近寄ってくると、俺の背中に腕をまわしてきた。
「行くのか?」
「はい」
「じゃあ、ケリつけてこい。正面玄関で待っていてやる」
「はい」
軽く口付けを交わし、そのまま西脇を見送る。
けだるかったが、ぼんやりと横になってなんかいられなかった。大きくのびをして、俺はベッドから降り立つ。
「今日は晴れたか」
カーテンの隙間から入り込む日の光が、まぶしかった。
― 了 ―