あれだけ大がかりなテロ行為を行ったにも関わらず、ザックガッセの消息は不明だということだった。サイトの方からも捜査の手が入れられたが、巧妙に隠蔽されていたため有力な情報を得られていない。捕縛者からも、主犯からの命令は携帯電話のメールのみで行われたため有力な証言は得られないでいる。
捜査は続行されるが決定的な物証が無いに等しいため、長期化することは必須らしい。
「──ってことだから、今回は何とか終息したが、気ぃ緩めるなよ」
短くなった煙草を忌々しそうに灰皿へねじ込む内藤さんはその言葉で、隊の見舞い品代わりの現状報告を締めくくった。
それが合図になり、皆一様に肩の力を抜く。およそ半数は深い溜め息を伴っていた。
「もう勘弁してくれ。また来られたんじゃ、どう考えても体がもたん」
疲労の色が激しい者の一人である三舟さんは天井を仰ぐ。室班は事件当日、応援のために勤務者の多くを外へ出したため外警に継ぐ負傷者数を出している。その影響で三舟さんと副班長代理の真田さんは、休日返上で働きづめの状態だった。
影響が残っているのは室班だけではない。コンピュータ班から外警や室班に応援が行っており、隊全体で見ても、かなりかつかつの運営状態なのだ。
「皐さんが手伝おうかって言っていたけれど、どうする?」
「うちを心配する暇があるなら、クラシックでも聞いていてのんびり寝ていてくれと言っておいてくれ」
「わかった、そう言っておくよ」
野田さんはにやりと笑う同僚に笑みを返す。妻の不在に関して、決して謝罪の言葉を述べない。三舟さんだけでなく皆に返すものはそんな言葉ではなく、皐さんが無事に大役を果たし元気に職場復帰することであることを知っているからだろう。
「三舟、隊員の復帰状況はどうなっている?」
「来週にはほぼ全員が復帰できそうです。重傷者が居ないのが幸いでした」
頷いた石川さんは、西脇さんを見やる。
「外警も、来週には通常業務に回復できます」
「わかった。みんな、もう少しだけ現状でがんばってくれ」
皆の返事を聞いた隊長は、一つ頷いて会議の終了を告げた。
班長たちは三々五々散っていく。
私と篠井さんは、今から勤務に入る隊長たちと簡単な引き継ぎをしてから会議室を出た。隊長たちとはそこで別れ、篠井さんとは寮へ向かう廊下と寮住まいでない者が使用するロッカールームへ向かう廊下の辻で一度立ち止まる。篠井さんとはここで別れることになるからだ。寮住まいを決めた篠井さんだったが部屋の空きが無く、八月の部屋替えまでは委員会が用意したマンション住まいを余儀なくされている。
「それでは、また明日」
「はい。お疲れ様でした」
「お疲れさ……」
「あ、篠井さん!」
振り返ると、三浦医師が軽い足取りでこちらに駆け寄ってくる。私は思わず、篠井さんとともに三浦医師を待ちかまえた。
「今日でしたよね。約束」
「ええ、着替えてから医務室へおうかがいするつもりでした」
「よかった、入れ違いにならないで」
そう言った後、立ち去るタイミングをのがしてしまった私の肩を、三浦医師はがっしりと掴む。
「用事がなかったら、マーティもおいで。アルコールは苦手?」
「いえ、苦手ではないですが……いいんですか、私が付いていっても?」
もちろん、と頷く三浦医師は、私につられて篠井さんへ視線を向ける。二つの視線を向けられた篠井さんは数回目を瞬かせた後、小さく微笑んだ。
「大歓迎です。では、すぐに着替えます。三浦さんは通用門で待っていて頂けますか?」
「了解。それじゃ、マーティも急いでな」
「わかりました。すぐに行きます」
頷いた私は二人と別れ、部屋へと急いだ。
■ ■ ■
「マーティが日本酒いけるクチだってのには驚いたよ」顔を薄赤に染めた三浦医師が私を見下ろす。目をとろんとさせてはいるが、しっかりした足取りで自転車を押している。
私たちは表通りに並行して走る一本中に入った通りを歩いていた。表通りと比べると人がまばらで、自転車を押す三浦医師が通りやすいからだ。
篠井さんとは帰る方向が違うので店を出てすぐに別れたのだが、三浦医師は「自転車に乗る前の酔い醒まし」と途中まで私を送ってくれると言ってくれたため、こうして肩を並べている。
「あんなに飲めるとは思わなかったです。自分自身が驚いてるぐらいですから」
「そう言う割には、いいスピードで飲んでたじゃないか」
「今日のは飲みやすかったんですよ。前に何度か飲んだことがあったんですが、その時はちょっとなじめなくて。前のも今日のお酒と同じだったらよかったのに」
「じゃあ、今日のチョイスは当たりってことだね。気に入ってくれた?」
「はい、また飲みたいですね」
「そう言ってくれると嬉しいよ。選びがいがある」
横断歩道の赤信号につかまり、私たちは歩みを止める。それを切っ掛けに、私は話の方向を少しずらした。
「私は、篠井さんに驚きました」
「篠井さんに?」
「ええ。この間の事件が終わってから、結構うち解けてきてたんですが、あんなに笑う方だとは思わなかったんです」
アルコールの力もあっただろうが、篠井さんはよく笑っていた。赴任直後は「睨まれているようだ」と評判が良くなかった吊り気味の目尻が下がる様は、不思議と安心感をもたらしてくれたのだ。
「それは僕も思ったよ」
「三浦先生も?」
「ああ。前に会った時は、額の傷を受けたばかりだったのもあるんだろうけれど、毎日毎日、マリアナ海溝ぐらいのタテジワを眉間にいっぱいつくっていたからね。苦笑どころか冷笑も見せなかったぐらいだった」
紡いだ言葉としてはおどけたものだったが、語感は真逆に深刻さを含んでいた。
私は心に湧き上がった疑問を一度飲み込む。だがしかし、口に出さずにはいられなかった。
「怪我をしたとき、篠井さんに何があったんですか?」
三浦医師は首を小さく横に振った。
「それは僕もしらないんだ。当時、僕は内紛で荒れたA国にMSFの一員として入国していた」
西アジアのとある国は多宗教・多民族だったために内乱が長く続き、一つの国が最終的にいくつかの小国に分かれた。その一つがA国だ。独立した後は後で、政府とマフィアがしばらく対立し、政府側が勝利する数年前まで国内情勢は混乱を極めていた。
そんな時期に三浦医師はA国に乗り込んだという。無法地帯に居たこともあると聞いてはいたが、改めて聞くと敬服せずにはいられなかった。
警備隊は危険と背中合わせではあるが、三度の食事はあるし、休暇もある。死が日常である場所へ自ら赴く者と私を比較できるものではない。
ある種の畏敬の念を込め見つめる私に気づくことなく、三浦医師は言葉を続けた。
「ある村でマフィアと政府軍が撃ち合ってね。戦いは唐突に始まって、村人も犠牲になるぐらい状況はぐちゃぐちゃだった。連絡を受けて駆け付けたのは戦闘が終了した翌日で、そこにいた負傷者たちの中に、篠井さんが居たんだ」
「……」
「その時だよ、額の傷を治療したの。麻酔が切れたとき、どうして生きているんだ、ってつぶやいてた」
──だから、何かがあったんだろうね。戦闘中に。
三浦医師は視線を足下に落とす。しかし信号が青に変わると同時に上げた顔は、私が想像していたものと違って晴れやかな笑顔だった。
「ま、いい顔になったんだ。それで良しとしようじゃないか」
二人で横断歩道に踏み出すと話題は再び方向を変え、篠井さんから遠ざかる。
そのことを私は残念に思い──次の瞬間には、なぜそう感じたのか疑問が湧き上がる。しかし深く追求する前に、それは酔いの波にかき消されてしまっていた。
■ ■ ■
リビングに足を踏み入れるのと同時に、私は軽く吐息を漏らす。微酔の心地よさに翻弄される思考は、服を脱がねばと思ってはいても、それを実行に移す余裕を持っていなかった。隅に備えた簡易ベッドにまっすぐ倒れ込む。
服を……と考える。その次に浮かんだのは、自分は貧乏性なのか、という唐突な自問。
用意された1LDKのマンションは、リビングが唯一の生活の場となっていた。このベッドと、ノートパソコンとポット、それにコーヒーカップ一つだけを乗せたテーブル。そして衣服が少しだけ入った小さなワードローブ。それが私の持ち物だ。寝室として使われるはずだった部屋は、引っ越してきた時に一度だけドアを開けて以降、ノブに触ってさえいない。
もう一度問う。私は貧乏性なのか、と。
カーテンを引いていないお陰でかなり明るい、電気のついていない部屋をぼんやり眺め、否と答えた。
必要がないものは使わない。それ以前に所持しない。ただそれだけのことだ。十年を超える年月を、そのように過ごしてきた。
気怠い腕をなんとか動かしてスーツを脱ぐ。上着をベッドの下へ落としたところで力尽きた。他愛のない考えが泡のように次から次へと浮きあがっては、はじけて消えていく。
うつぶせの息苦しさに寝返りをうつと、微かな重みが胸の上から首へと転がり落ちた。眼鏡を枕元に置いたついでに、特に意味もなくそれを目の前につまみ上げる。
首に巻き付く鎖につなぎ止められたその金属塊は、過去に一度、とある者の命をこの世から奪い去ったものだった。
「私は『勝利者』ではないのに」
部下を死なせたことがあるのだから。
目を閉じれば、まぶたの裏に鮮やかな青天が広がる。
その下で銃を抱えた少女が一人、空と同じ色の目を細めて、軽やかに笑っていた。
「大丈夫。繰り返さないから……」
金属塊を手放すと同時に、意識が遠くなっていく。
「もう、二度と、君の蒼を……曇らせは……」