自分のデスクに着席してなにをごそごそしているのかと声をかけたのが、その時だった。
「ええと、うえぽん? 何やってんのかな?」
冠蓮が声をかけた丁度その時、ルームメイトの植草累は自らの前髪を一房、無造作に切り落としたところだった。
「髪、切ってるんです」
「どうして? 今の時間ならまだ、館内の理髪店やってるよ?」
「なんとなく、切りたくて」
「そか」
「はい」
会話が終わると、机に向き直った植草は二房目を切り落とす。
「──うえぽん」
「はい?」
「切りにくくない?」
三房目を手にしていた植草はそれを手放した。そして、背後のベッドに寝そべる冠を、もう一度振り返る。
「切りにくいです」
やっぱりね、と冠は心中で頷く。
理髪師の見よう見まねだろう。左手の指に前髪を挟んで切る姿は様になっているが、切り落とされる髪の量が極端に少ないのだ。
その答えを、冠は簡単に口に出した。
「事務ばさみなんか使ってるから。もっと適したはさみが良いと思うよ?」
ゆっくりと二度、瞬きを繰り返した植草は、短く感嘆の声を上げる。
「なるほど。くぁんさんって、すごいですね」
乏しいと思われがちな表情に驚嘆と気色が滲むのを、冠は見いだしたのである。
(これは結構……楽しいかも)
冠の口元が、小さくほころんだ。
「お、早速やってるな」
「くぁんさんの言うとおり、散髪用のはさみはよく切れますよ」
すでに八割方の散髪をやり終えており、残るは鏡では見えない後頭部が残されていた。植草はその頭髪を無造作に掴んで切り落とそうとするが、どうも上手くいかないようである。そんな様子に、冠はたまらず声をかけた。
「手伝おうか? っていうか、どっちかって言うと、切ってみたいんだけど。ダメかな?」
深呼吸一つ分の長さだけ髪を掴んだまま、冠をしげしげと眺めた植草は、「お願いします」とはさみを差し出した。
それを受け取った冠は早速、植草の背後に立つ。しかし、すぐに植草の髪にはさみを入れなかった。まず手櫛で植草の髪を簡単に整える。
その指通りに、冠は思わず笑みを零した。
一部の髪を切り落としても気にならないぐらい、植草の髪は自然に緩いカーブを描いている。その見た目で、冠は勝手に固い髪質だと思いこんでいたのだが、驚くほど細く柔らかい髪だったからだ。その毛髪が指の間をすり抜ける感覚が、何とも言えず心地よいのである。
「──くぁんさん?」
訝しげに植草が声をかけるほど冠が髪をゆるゆるとすき続けていたのも、無理はなかった。
「ああ、ゴメンゴメン。今やるから」
冠は改めてはさみを手に取ると、植草の髪を手早く切りそろえた。
ずっと髪を触っていたいという小さな衝動を、忘れたふりで押し込めて。
そのこともあって冠が植草の髪の感触をしばらく忘れ去っていたのだが、ある日、唐突にその心地よさを思い出したのだ。
その日、冠は開発班のメンバーと寮の外へプライベートで出かけていたのだが、寮のラウンジでは、有志による飲み会が行われていた。その宴もたけなわ時に帰還した冠は、宴会場でひとりぽつんといた植草を見つけたのである。
心地よい生酔いにゆらゆらと揺れながらひとり遊びをしていた植草は、二言三言交わした直後、冠の腕の中に沈んだ。
小さな寝息をたてる植草を抱き留めたまま硬直した冠は、手の平に触れる柔らかな感触に、忘れたつもりで心の奥底に沈めていた感情を引き出され、あっさりと撃沈したのである。
「──駄目だ、俺、惚れたわ」
それだけ呟いた冠は、眠りこける植草を抱きかかえ、ラウンジを後にしたのだった。
■ ■ ■
特に気にはならなかった。でも、つい探してしまう。それぐらい気に入ってしまっていたんだ。
それほど、植草の表情の変化は小さい。よく無表情の仏頂面に見られがちだが、感情表現は人並みに豊かなのである。ただ、読み取りづらいだけで。
だから、お気に入りの『におい』をかぎ取って笑みを浮かべるのは当然のことであり、何の不思議も無いことなのである。
残り香の強さから、そう時間は経っていないと植草は見当をつけた。主は帰ってきて間もないはずである。
ドア脇の数字キーに六桁のキィナンバーを打ち込んで解錠する。室内に踏み込むと、先ほどよりは強いにおいと声が、植草を出迎えた。
「おかえり」
ベッドによりかかり雑誌を読んでいたルームメイトの冠が、にっこりと笑いかけた。
それは何とも不思議な感じを、植草に覚えさせる。
入隊してから、植草は十人前後の隊員と同室となったのだが、同室者の帰還に「おかえり」と出迎えた者は居なかった。取り決めたわけではないのに皆が皆、「お疲れ様」と声をかけるのである。
だからそれが当然であり普通であると信じていた植草にとって、冠の出迎えは新鮮でこそばゆいものだった。同室となって半月以上も経つのに、それは依然、変わらない。
変わらないのは、植草が好むにおいもそうだった。
このにおいの元は、冠の整髪料である。どこにでもあるもので、隊内にも同じものを使う者が何人もいる。強く刺激臭のあるにおいではなく、どちらかというと微香性で特殊性は無く、ごくありふれたものなのだ。
なのに、冠がつけたものは、植草が心地よく感じる良いにおいとなるのである。
どうやらそれは、整髪料のにおいと冠の体臭が混じったものだということに、植草の中で落ち着いた。
香水とは、香水そのもののにおいと付けた人の体臭が時間をかけて混じり合った時が本当のにおいだ、と言う記事を数日前に読んだのである。植草が好むにおいは、まさにそれだと気づいたのだ。
「ただいま、です」
幸せを感じるにおいを密かに胸一杯吸い込んで、植草は靴を脱いだ。
冠と部屋が別になるのは残念なことだったが、互いに寮住まい、そして部署は違えど勤め先は同じ国会議事堂であるならば、好きなにおいから完全に切り離されたわけではないので、植草はそう落ち込まなかった。朝礼のある広間で、寮の廊下で、夕食時の食堂で、においを堪能する機会は多くはなかったが、全くなくなったわけではないからである。
そんなある日、植草はルームメイトに誘われて、寮のラウンジで行われた飲み会に参加することになったのである。「とにかく人を集めて大騒ぎしたい」ということだったので何の集まりなのか植草は最初知らなかったが、目的がなんなのかは、ほどなく判明した。
こっぴどい振られ方をした同期を慰め励ます会というのが、メインの趣旨で、飲んで騒いで失恋の痛手を吹き飛ばす手伝いをしよう、というものだった。
集まった面子は、趣旨を理解している者が半分、飲んで騒ぎたい者が半分というところである。植草はどちらかと言えば前者ではなかったはずなのだが、気がつけばメインの集団の中でグラスを傾けていた。
忘れちまえというありがたい慰めの言葉が飛び交う中、当の本人は未練を断ち切れない様子である。酒の力もあって、周囲の人間に元彼女の良いところを切々と訴えたり、何が悪かったのだろうとくだを巻いたりしていたのだが、とうとう植草にお鉢が回ってきたのだった。
「なあなあ、俺になにが足りなかったっていうんだよぉ。なぁ、植草ぁ、何だと思う~?」
焼酎を生のまま、最初と変わらぬペースで飲み干していた植草は、空になったグラスをしばらく見つめていたが、ふいと顔を上げた。
「においがないから」
「においがないぃ?」
オウム返しの問いは主役だけでなく、二人の様子を見守っていた周囲からもあがる。しかしすぐに、「あぁ、そうか」と納得した声もすぐに聞こえた。
「お前、フェロモンが無いんだよ、フェロモン! だから振られたんだよ」
解説の声に賛同の声がいくつもあがる。
「んなの、俺にどうにかできるかよぉ」
「だからフレグランスには気をつけろって、俺は言っただろ~」
徐々に、話の中心が植草から遠ざかっていく。
それを気にする風もなく、植草はとろんとした目つきで、新たな酒をグラスに注いだ。
ぼんやりとした思考で、ラウンジで呑んでいた事を思い出す。開始から三時間を過ぎたあたりから記憶が不確かだった。主役に絡まれて質問されたことまでは覚えているが、何と返したのかはあやふやである。その後の事は、全く覚えていなかった。久しぶりに速いペースでアルコールを消費していたからだろうと想像がついた。
寝返りを打とうと身じろぎすると、植草のかかとは、あり得るはずのない壁を蹴り付けた。
そこでやっと、自室ではないベッドに潜り込んでいることに気がついたのである。
ラウンジで騒いだ後では、そう珍しくもない。部屋の主を追い出して、十人ぐらいで団子になって眠っていたこともあるのだ。
誰の部屋に潜り込んだのか確かめようと、重たいまぶたをこじ開ける。
薄暗い闇の中、植草の目に飛び込んできたのは、規則正しく上下する、誰かの胸だった。
視線をゆっくりと移動させると、無精ひげの生えたあごが見える。
そこでやっと、植草は誰かに抱えられるようにして眠っていたことに気がついた。
そして、最初に感じた心地よさの正体も悟ったのである。
ゆっくりと、味わうように深く息を吸い込む。
大好きなにおいを貪りたいとばかりに目の前の胸に顔を埋め、そのまま再び、眠りの海にこぎ出したのだった。
― 了 ―