ただでさえそんな状況なのにその日は個別に呼び出されてしまい、胃痛がさらに激しくなっていた。
それを我慢しながら、指定された会議室で二人きりの対面に臨む。
「なんでしょう?」
棘は隠さない。隠す必要もない。この人は、自分が嫌われていることを十二分に知っている。その理由も。そんな相手に今更、媚びを売るつもりなんかさらさらなかった。
「来週いっぱい休暇を命ずる。今週金曜から、ここへ行くように」
宮沢さんがクリップファイルを差し出したが、俺は一瞥しただけで受け取らなかった。
「委員会から休暇を命じられる、いわれはありません」
「親御さんからの要請だ。受け取りたまえ」
一瞬だけ、宮沢さんは苦々しげな表情を見せる。それを深く考えるよりも、親からの要請だという事実が俺の思考を占めた。
ここに来てもまだ、俺は『あの人』に振り回される立場に立たされている。
逃げ切ったとは思わなかった。このまま諦めて欲しいという希望だけで今まで存在を忘れ去っていたが、どうやらそれは虫が良すぎたのだろう。
だが、やはりショックは大きい。今更とは思いつつも愕然となり、差し出されている物を力なく受け取った。
ボードだけを返却し、封のされていない封筒から中身を取り出す。紙面には達筆な字で用向きと場所のみが記されていた。
「ここまできて」
こぼれ出た独り言に興味を示すことなく、必ず出向くようにと言い残し宮沢さんは部屋を出て行く。
一人残された俺は、立っていられなくなってテーブルに手を付いた。
「ここまできて……」
諦めの吐息が、思わず漏れた。
「どうした?」
不意に聞こえてきた声に、体が強張る。
最初、何がなんだかわからなかった。
自分一人しかいないはずの部屋で、何故、内藤さんの声が聞こえたのか。
多量のアルコールで停滞していた思考を、ゆっくりとほぐし始める。
「西脇だろ、どうかしたのか?」
たっぷりと深呼吸三回分の時間をかけて、やっとわかった。
無意識に、内藤さんへ電話をかけたのだ。
ソファに寝転がったまま携帯電話を耳から離し、暗闇の中、「内藤」の文字が浮かび上がる携帯のディスプレイを凝視する。
声を聞くのは五日ぶりだ。もっと長く声を聞かなかった時もあったのに、その時よりもうれしい。
「おい」
いつまでも返事が無いため、微量の怒気が含まれる。その時の眉を寄せた顔を思い浮かべると、不意に視界が曇った。
「内藤さん……」
「おう、俺だ。どうした」
「俺……すみません。特に、何もないんです」
「お前が用も無しにかけてくるわけないだろうが。何があった?」
「いえ、本当に、何も……」
今度は内藤さんが黙り込む。納得する答えが得られるまで黙り込むつもりらしい。
このまま電話を切ってしまおうかとも思ったが、内藤さんを求める俺にとって、できることではなかった。
「声を、聞きたかっただけなんです」
「じゃあ、いくらでも聞かせてやる。今どこだ」
「どこって……来るつもりですか? もうおそ……」
「うるせぇ。お前は聞かれたことに答えればいいんだ」
気迫に圧され、抵抗できないままに今居るホテルの名前を告げる。
「いいか、そこから動くな。今行く」
そう怒鳴ったのを最後に、通話は切れた。
「動くなって言われても……俺は動けないんですよ」
一度は拒否したはずだった。それが、高校二年の終わり。
無反応は承諾だと受け取った。だが、違ったのだ。
今更になって、呼び出されてホテルの一室に軟禁され。毎日見合いを繰り返されて。
逃げることは、できない。親父の手は、どこまでも追いかけてくるから。
でも、どこかに逃げたくて。どうしようもなくて……酒に逃げて。
その逃げた先で、内藤さんを求めていた。
俺には、内藤さんしかなかった。全てのことから守りたかった。なのに、土壇場で助けを求めて。
「失望、するかな」
呟いて、否と首を振る。
「呆れるんだ」
失望するほどの望みを抱いてくれていていると自惚れることができるほど、俺は強くない。
重厚な音色が俺を揺り起こす。
いつの間にか眠っていたらしい。ソファから身を起こすと、呼び鈴がもう一度部屋に響いた。
アルコールでもつれる足を引きずりながらリビングを抜け、玄関を押し開ける。
チェーンに阻まれ、ドアは僅かな隙間のみをつくった。そこから、内藤さんの顔が見える。
内藤さんは俺の顔を見るなり顔をしかめて呟いた。
「酒くせぇ」
まだ眠っているのかもしれないと思った。
正直に言えば、先ほどの電話も夢のような気がするのだ。
逃げたい一心に俺が俺に見せた、幻。
電話も、この目の前の内藤さんも。
「──内藤さん?」
だが、目を擦っても幻は消えない。
「本当に、内藤さん?」
「おう、俺だ。中に入れろ」
「夢じゃ、なかったんだ」
「夢?」
「電話かけた夢を見たと思っていました」
「そんなタマか、お前が。らしくない」
「俺らしくない、か」
思わず自嘲の笑みを浮かべる。そして一度ドアを閉じるチェーンをはずし、今度こそ大きくドアを開いた。
内藤さんが中へ入るのを見届けないままに、俺はリビングへと戻る。
室内は薄暗い。俺の目は闇に慣れていて問題なかったが、明るい場所にいた内藤さんは勝手がわからず、まだ玄関に居るようだ。
「西脇、電気は?」
「点けたくないんです」
振り返ること無くそう告げる。納得した雰囲気ではなかったが、内藤さんはそれ以上何も言わなかった。
ふらりと、窓際へ寄る。
カーテンを閉めていない壁一面の大きな窓から、外灯の明かりが上向きに薄く差し込む。外からの光はそれだけだ。月明かりはない。
「すごい部屋だな、おい」
振り返れば、ようやくリビングにたどり着いた内藤さんが、暗い部屋の中を見回している。弱いながらも光源はあるから、はっきりは見えなくても調度の数々は見えているのだろう。
もともとこのホテルは分限者向けの施設だ。都心部のシティーホテルとは比べものにならないほど格が高い……とされている。
俺に言わせれば、ただただ趣味の悪いとしか言いようがない。
欧風の城に似せたロココ調の外装。一流ブランドの家具などを配した内装は、長期滞在型のつくりになっている。一つ一つをみれば、それらはいいモノなのだろう。だが俺にとってはただの牢獄だ。
「こんな成金趣味……反吐が出る」
「──そうか?」
「そうですよ」
そろそろと近づく内藤さんの足が、何かを蹴った。内藤さんはかがみ込んでそれを拾い上げ、周囲を見回す。至る所に、空の酒瓶が転がっているはずだった。
「こんな高い酒をがばがば呑みやがって」
「キャビネットにあるのが、これだけだったから」
「だからって、あのなぁ……」
内藤さんは手に取ったビンをテーブルに置き、俺に近づいた。
「体壊すだろうが」
「いいんです。呑みたかっただけだから」
「──どうした。何かあったのか?」
答えたくないと思う。しかし、どうやってそこから逃れればいいのかわからない。
だから仕方なく、正直に答えた。
「見合い」
「見合い?」
「そう、親父が用意した見合い。だから、俺は酒で逃げたかったんです。見合いと親父から。どうせなら、現実全てから」
そこで、口をつぐむ。内藤さんは一度口を開きかけ、そして短く息を吐く。
「──弱いな」
「弱いですよ。だから班長なんてやっていても、誰も守れない。この間も、内藤さんに怪我をさせている。だから言われました。家庭でももって守る者をつくれって。そして、DGを辞めて跡を継げと。それが俺の限界らしいです」
「そうか」
自嘲の笑みを見せると、内藤さんは俺を見上げる目を反らした。
「そうした方が、お前のためかもしれんな」
なぜだか分からないが、その言葉を聞いた瞬間、かっと頭に血が上る。
気が付けば、内藤さんの襟首を掴みあげていた。
「内藤さんが、そんなことを、どうして?」
情けない自身に対する憤りを、内藤さんにぶつけずにいられなかった。
「そんなこと、言う人だと思わなかった」
「にしわき……っ」
「内藤さんは、親父と違うって。そう思っていたのに。結局、同じなんですね」
怒りが沸々と湧いてくる。
どうして、見合いなんかしなくていいと言ってくれないんだ。
俺は、いらないのか?
情けないやつだから、いらないのか?
何故、そんな簡単に父親に同調する?
俺には、傍らに居て欲しくないのか?
「──見合いなんかしなくていいって、言ってください!」
「にしわきっ!」
重い衝撃が腹をえぐった。
何がなんだかわからないまま崩れるように膝を折り、腹を抱える。
「西脇」
ひゅるひゅると空気が抜けるような発音で、内藤さんは俺の名を呼ぶ。そして俺の前髪を無造作に掴んで顔を仰向かせた。
「お前、どうしてそんなことを言うんだ」
視界はぼんやりとしていた。視線が、内藤さんに合わない。
「お前はさっき、逃げたいと言っていたな」
ぐいと、さらに髪を引きずられる。
「俺からも、逃げるのか」
その言葉に、俺は息を飲む。
──俺は酒で逃げたかったんです。見合いと親父から。どうせなら、現実全てから。
やっと見えた内藤さんの顔は、苦渋の色を浮かべていた。
髪を掴む手から、力がゆるむ。
「俺を置いて、逃げるのか?」
「内藤さん……」
「一緒に居たくないのか」
「すみませ……っ」
感極まって、涙があふれ出した。肩を引き寄せられるままに、内藤さんの背に腕をまわ──そうとして、体を引きはがす。
「服、濡れていません……?」
「当たり前だ。この梅雨時期になに言っているんだ。俺はバイクしか持たん」
次の瞬間、俺は悲鳴に限りなく近い謝罪の言葉を叫んだのだった。
大丈夫だと言ってはいたが、やはり体は冷え切っていたらしい。一度湯船に入ると、内藤さんはぴったりと抵抗をやめてしまった。
だが、ちゃぷちゃぷと、洗い場に居る俺にお湯をかける。
「やめてください。俺まで濡れるでしょ。大体、梅雨入りを知らなかったんだからしょうがないじゃないですか」
「そんなの言い訳になるか」
言うと同時に、内藤さんはお湯を俺にざばりとかける。今回は桶を使って豪快に、だ。そのせいで、俺は頭のてっぺんからつま先まで水浸しになってしまった。
「内藤さんっ」
「ほら、お前も入れ」
「入れって、俺、服……」
「いいから」
引きずり込まれるようにして浴槽に入る。広いとはいえ、男二人が入るにはとても狭い。
「内藤さん、俺、後で入りますから……」
「一緒に居るんだろ?」
試されているような、でも確認したがっているような問い。
俺は、俯くように頷いた。
引き寄せられるようにして、抱きしめ合う。
そして少し体を離して見つめ合い、強く唇を重ねた。
吐息も体温も、融け合って一つになるほどに、互いに貪りあう。
「ずっと、一緒だ」
「はい……」
内藤さんと居られるのならば、それでもう、充分だった。
― 了 ―