嘘だと思いたかった。
知っている姿が全てだと信じたかった。
ただそれは、私の願望だということを、やはり私は知っていた。
その現実から逃げたくて、ねっとりとからみつく重たい風を掻き分けるように、私は駆ける。
そんなことをしても無駄だとわかっていても、そうするしかなくて。
悔しさと寂しさと悲しさでぼろぼろと落ちる涙も、そのままだった。
いい加減走り回りすぎて息切れし始めて、逃げ足は歩みに変わる。胸にぽっかりとあいた空洞は、涙を流しすぎたせいかもしれない。
見慣れた公園が近くだと気づいた時、自然と足はそちらへ向いた。
うっそりと木々が茂る公園に、昼間のような活気はない。人の気配さえもうかがえないその空間は、一人になりたいと思っていた今の私にありがたかった。
足取りも重く、目についたベンチへ腰掛ける。
先ほどまで腰掛けていたクッションの効いた椅子と比べれば座り心地が悪かったが、居場所としては比べられないほど居心地がよかった。
アレクが居ないからだ。
改めて思う。私がどれだけ、アレクのことを好きか。
好きじゃ足りない。愛してるも足りない。どう表現していいかわからないほど、アレクのことが好きなのだ。
その欲目を差し引いても、アレクも私を好きだと思っていた。
だがそれは、ただの独りよがりだったのだろう。
アレクは私を好きだと言った。
しかし、その『好き』という言葉は、一端ともう一方の間に大きな隔たりを持っている。
一方が「愛している」に匹敵する『好き』で、他方にとっては「コーヒーが好き」という他愛のない『好き』。前者は私で、私に対するアレクの『好き』は後者だったのだ。
それに加えて、ハンズよりも好きと思われていなかったらしい。部屋を飛び出した時に呼び止めてもくれなかった事実は、追いかけてきても振り切るつもりで走ってきたにも関わらず、私に大きな傷を与えた。
「ばかみたいだ」
つぶやいて俯くと、膝の上に置いた手に滴が落ちる。
まだ流れる涙があったのかと感心すると同時に、私は無意識に目を閉じた。
すると、思い出したくもない光景が目の前に広がる。
私以外の男と口付けを交わしていた。三人で、と寝室へ誘うハンズに、アレクは逆らわない。小さな頃から一緒に居るんだよ、とハンズが浮かべる無邪気な笑みから逃げることしか、私にはできなかった。
何もできなかったのだ。アレクを問いつめることも、奪い取ることも、心を引き寄せておくことも。
私一人が、アレクに落ちていただけだったのだ。
「ほんと、ばかみたい」
「マーティ?」
幻を振り払おうと空を仰いだ時だった。問いかけるような呼びかけは、誰であるかすぐにわかった。振り返れば、スポーツウェア姿の城がこちらへ近寄ってくる所だった。さりげなく涙をぬぐい、私は笑みを浮かべる。
「どうしたの、城。ここは散歩コースじゃないだろ?」
「ダグがねだるから、遠征したんだ」
足下をころころと走り回る小さな固まりを抱き上げると、ちぎれんばかりに短い尾を振ってくれた。
べろべろと顔をなめ回すダグから顔を背けながらも、意外と大きな胴をしっかりと抱きとめる。今まで走り通しだったのか体温は熱すぎる程に高かったが、気にならなかった。逆に、何とも言えない安心感を与えてくれる。
城はきっと、泣いていたことを知っているだろう。もし気づかなかったとしても、アレクと出かけたのを見送ってくれたのだから、こんな時間に私一人でいることを不審に思っているに違いない。
しかし、ダグと私を見下ろす城は、終始無言だった。帰ろう、と私が声をかけるまで。
それが一番、心地よかった。
■ ■ ■
今夜は同室者が夜勤なんだという城の言葉に甘えて、私はその夜を城の部屋で過ごした。アレクの部屋へ行きたくなかったし、自室へ戻れば同室者に不審な視線を向けられそうだったからだ。城と過ごす夜はとても楽しかった。ダグと遊んだり勤務中の笑い話を暴露したりして、アレクと無縁の時間を過ごせたからだ。
笑い、話し疲れた私は、全力疾走の疲れも手伝って、冗談と思えるほどあっさり眠りに落ちる。そして目が腫れることなく、翌日の朝を迎えることができたのだ。
目が覚めた時には、すでに城とダグは『出勤』した後で、私は一人、ベッドに残されていた。
枕元に残されていたメモには「好きなだけ寝ていてください」とあったが、それは気持ちだけ受け取ることにした。何もすることがなければ、また昨日のことに思考が縛られてしまう。それならば自主的に出勤を少しばかり繰り上げて勤務に就こうと思い立ったのだ。
ただそれには、アレクの自室へ出向く必要がある。一瞬ためらったが、どうせ行かねばならないのだと勇気を奮い起こした。
今にもきびすを返しそうな足を引きずりながら向かった部屋に、主は居なかった。指が憶えている暗証番号を打ち込んでロックをはずす。ベッドの端へ引っかけるように置いておいた制服を取り上げ、ほっと息を漏らした。後はこの部屋を出るだけだと気が楽になったのだ。さっさとここを出ようと踵を廻らせれば、出入り口がふさがれていた。
「アレク……」
みるみるうちに顔が強張っていくのを、私は止めることができなかった。
口の中が乾き、視界がすうっと狭くなる。耳の奥で響く重低音の鼓動は瞬く間に早くなり、もぎ取られそうになる意識をしっかりと私につなぎ止めていた。
「私は……」
思わずこぼれたつぶやきは、はっきりと声にならなかった。ただ、かすれた空気がひゅるひゅると喉から漏れるだけだ。
昨夜と同じ服装のアレクは、少々やつれた顔へわずかな笑みを張り付かせてそんな私を眺めている。
私は唾を飲み込むと、もう一度口を開く。今度ははっきりと声が出た。
「私は、あなたのことが好きなんです」
「うん」
「アレクは?」
「好きだよ」
「ハンズは?」
「好きだよ」
「じゃあ」
私とハンズ、どちらが好き?
そう言いかけて、飲み込む。アレクの両腕に包み込まれたからだ。
優しく抱きしめるアレクの背中に腕を回しかけた私を制したのは、決定的なひとことだった。
「ごめんね」
たったそれだけの言葉に含まれた意味は、私を奈落の底にたたき落とすには充分すぎる威力を持っていた。
関係を修復するための謝罪ではない。
私の想いには応えられない。その謝罪なのだ。
「っ!」
私はアレクを突き飛ばし、そこから逃げ出した。それ以外に私ができることは、なんだったんだろう?