ようやく日も傾き始めたのに弛まぬ炎暑の下、電気街での買い物を終え駅へ向かう道をのんびりと歩いていた私とアレクは、背後から英語で呼び止められた。
振り返ると、アロハシャツにチノパン姿の西洋人が、赤い髪を掻き上げながら広い額に浮かぶ汗を拭いている。アレクが怪訝そうに頭少しだけ傾けると、サングラスをはずして目を細め、人なつこい笑みを浮かべた。頭一つ分だけ低い位置にある男の顔を凝視して二三度瞬きを繰り返したアレクは、ぱっと顔を輝かせる。
「もしかして、ハンズ? ハンズ・スミス?」
「そうだ、ハンズだよ! お前、でっかくなったなぁ」
「ハンズも。なんだよ、この腹!」
「ローリング・ロックを飲み溜めてきたんだよ。ないだろ、日本にさ」
「飲み溜めておけるわけないだろ。前から飲み過ぎなんだって。それよりも、何しに日本へ?」
「ビジネスだよ、ビ・ジ・ネ・ス! これでも上には腕を買われているんだぜ」
「すごいじゃないか! なんでま……あ」
抱き合って旧知と再会をを喜ぶアレクは、はっと我に立ち返る。じっとりと睨め付ける私の存在を思い出してくれたらしい。ここでやっと、私を紹介してくれる気になったようだ。
「あ……えーっと、マーティ。彼はハンズ・スミス。母の友人で小さい頃からお世話になっていたんだ。で、スミス。彼は友人のマーティ」
プロフィールに引っかかるところはあったが、一応笑顔で、私はハンズと握手を交わした。
「今、仕事はなにしてるんだ?」
「警備員さ。マーティは会社の仲間なんだ」
「へぇ。じゃあ、こっちに支社出すことになったら、アレクの会社を推薦しようか?」
「ハンズにこき使われるの? それは嫌だなぁ」
「こき使いはしないが、給料分は働いてもらうことになるさ……っと、しまった、もうこんな時間だ」
腕時計を見やり慌てるハンズは、財布から名刺を一枚取り出す。
「悪い、今から人に会うんだ。しばらくは日本に居るから、良かったら連絡をくれ」
「わかった。必ず連絡するから」
小走りに立ち去るハンズを見送って、私たちもその場を離れると東に足を向けた。浅草橋まで足を伸ばして、高倉さんに教えてもらったエスニック・レストランで夕食を食べる予定だったからだ。
その道すがら、アレクは終始、無言だった。眉根を寄せ、なんだかそわそわと落ち着かない。声をかけても心ここにあらずの様相だった。
アレクがようやく私の存在を思い出したのは、無事にレストランにたどり着き、メニューを広げてからだった。
「アーレーク、どうしたの?」
向かいに座った私が鼻をつまんでやってやっと、アレクは渋面を崩す。
そして私の問いにどう答えたものかと少しだけ悩んで、こう言った。
「うん、ちょっとね。ゴメンね、マーティ」
そう言われると、私はそれ以上質問できない。
私を友人と紹介したことだけではない。アレクの今の態度や、再会で様子を急変させるほどのハンズとの『本当の』関係。
いろんなことを、深く訊きたかった。アレクのことだから、訊きたかったのに。
しかし、微笑みながらも眉尻を下げた、心底困った顔のアレクを見ると、私はなにも訊けなくなってしまったのだった。
■ ■ ■
その後数日間、アレクの様子は明らかにおかしかった。一見すると普段と変わりがない。しかし暇ができれば改造・製造にいそしむのが普通だったのに、一人ぼうっと過ごすようになっていた。また、人目を避けて電話をしている姿を何度か見かけている。私が知っている限り、こんなことは今までに一度もなかった。
私とアレクは、未だ恋人同士ではない。どれだけアレクが私を抱きとめてくれても、心はつながっていなかった。どんなに抱きしめても、指の間から水がこぼれるように、アレクの心の私という存在が落ち抜けていく。二人で眠るベッドの中で、私は何度もそれを感じとっていた。
だからそのことにもケリをつけるべく問いつめてやろうと、勤務を終えたアレクを私室で捕まえたのだ。
「アレク、ちょっと……」
珍しくなにやら慌てていたアレクは、私の言葉を遮り肩を掴んだ。
「マーティ、今夜、暇?」
「一応、空いているけど……何?」
「ハンズ、憶えてる?」
「ん、まあ、一応」
一応も何も、初対面の日から一度も、私は彼のことを忘れたことはない。アレクの様子がおかしいのは彼と再会したことが原因であると、私は推断しているからだ。
煩悶している私の心中を露とも知らず、アレクは呑気に言葉を続けた。
「彼が一緒にご飯でもどうって言ってるんだけど、どう?」
「食事を?」
「そ。嫌なら、俺一人で行くつもりだけれど」
最後の言葉に、頭のどこかで、ぷつりと何かが切れた気がした。
俺一人で、行く? ハンズに会いに? どうして行くのを止める、という選択肢が無いんだ?
ふつふつと湧き上がる怒りを抑え、私は無理矢理、笑顔を顔に押し出した。
「いいよ。一緒に行くよ」
二人の関係を暴いてやる!──とアレクについて来たことまでは良かったが、その意気込みは永田町からそう遠くはないホテルに到着と同時に、一気にしおれてしまった。
初対面時のアロハにチノパンという出で立ちには似合わない、高級の部類に属するホテルが私とアレクの目の前にそそり立っていた。
その建物へと先導するハンズは先日と変わらずの軽装で、臆することなく建物の中へと入っていく。私と目を合わせたアレクは、小さく微笑むとあんぐりと口を開けたままの私の手を取った。
「行こう、マーティ」
その聞き慣れたようで聞き慣れない優しい声音に、私はあらがうことなく付き従う。その時はハンズとホテルのギャップに出鼻を挫かれ、思考能力がストップしていた。だから微妙に違和感を感じるアレクの一挙手一投足に気がついても、気が回らなかったのだ。
一戸建ての住宅なら簡単に建ってしまいそうなほどに高い天井のエントランスホールを横切り、奥へと進む。
エレベーターホールで先に待っていたハンズに導かれた先は、このホテルの最上級の部類に入るであろうスウィートルームだった。
ルームサービスだろう。こざっぱりとした室内にはレストランと遜色ないテーブルセッティングがなされ、その上に料理が所狭しと並べられている。
「好きな席へどうぞ」
ワインクーラーから取り出した瓶についた水滴を拭くハンズに言われるまま、私はテーブルへと進む。すると椅子をアレクがひいてくれた。
「どうぞ」
「あ、ありがとう」
エスコートされるままに腰を下ろす。すると次は、ハンズがワインを給仕してくれる。そしてアレクのグラスにも赤い液体を注ぎ、最後に自分のグラスも同じように満たすとハンズも着席した。
「アレクと私の奇跡的な再会、そしてマーティ、君との出会いを祝って。乾杯」
ハンズがグラスを少し持ち上げる所作にアレクが続く。そのアレクに笑みを向けられた私は、慌てて二人に倣った。
「こんなルームサービスとっちゃって、大丈夫?」
「あたりまえさ。こんな祝いの席をシケた飲み屋で済まそうとするなんて男じゃないね」
「五歳の誕生日にバーへ連れて行ってくれた人がなに言っているんだか」
「だから、大人になったアレクをここに招待したのさ。物事には順序ってものがあってね……」
食事は美味しく、思っていたより楽しい時間となった。
精密器機メーカーに勤めているというハンズは、営業で世界中を飛び回っているのだそうだ。日本へは通常営業と顧客の新規開拓を兼ねて半月前に渡航してきたのらしい。その合間で訪れた電気街で、アレクと私に出会ったというわけだ。
ハンズはおしゃべり好きで、発言の八割は彼の口から出たものだ。残りはアレクと私がほぼ等分していただろう。それでも、内容はハンズからの質問に対する受け答えが主だ。ハンズを問いつめるつもりだったはずだが、それはうまく行かなかった。
──あの瞬間までは。