それは当然のことと言えるだろう。事情も何も知らない第三者からすれば、私がアレクを捨て篠井さんに乗り換えたようにしか映らないからだ。
私はいい。だが、篠井さんにもその視線を向けさせてしまうことだけは止めさせたかった。彼は私に逃げ道を作ってくれているだけだから。
だから私は、この状態を打破する決意を固めた。
インカムで屋上に呼び出された城は、私を見つけるとまっすぐに歩み寄る。そして。
「──いったぁ! グーで殴ること無いだろ!」
「逃げ回るからだ! 親友として当然の権利だ!」
「親友だからって、やっていいことと悪いことがあるだろ!」
「それを先にやったのはどっちだ!」
静かに見つめ返す城を睨み付けていた私だったが、ほどなく城の肩に顔を埋めた。
「──ごめん」
何も答えは無かったが、城の手が私の背を優しく撫でてくれる。
「怖かったんだ。アレクにいらないって言われるのが」
「そんなこと……」
「言わないよ。口に出してはね。でも、態度や雰囲気でわかることってあるだろ? 日本語にもあるじゃないか。目は口ほどにものを言うって」
「──」
「アレクはね。私にとってブラックホールだったんだ。惹かれるままにアレクへ落ちていたんだけど……見えないんだ。近づけば近づくほど、アレクが。ハンズのこともそうだけど、知らないことやわからないことが多すぎるんだ。私にはそれが、耐えられない」
「わからないって……アレクに聞けばいいじゃないか」
「聞いたよ。そしたら、私のことは好きだけど、ハンズのことも好きなんだって。わかんないよ、そんなの」
私は城の肩口から顔を上げると、なんとか満面の笑みを浮かべた。
「だから、もう、いらない。それを言いたかったんだ」
「そんなこと、どうして俺に?」
「アレクは私のことを必要としてないから、言う必要は無いんだ。後は城に言うだけだったから」
「でも、俺は……」
「あげる。返品は受け付けないから」
戸惑いながら何か言いかける城をそのままに、きびすを返す。
呼び止められたが、片手をあげるだけで振り返らない。そのまま建物内に入ると、後ろ手で扉を閉めた。
そこでようやく息を吐く。同時に、知らず力んでいた肩から緊張が抜けた。一度ぎゅっと目をつむり、次に開くと、眼下にある階段の踊り場からこちらを見上げる篠井さんと目が合う。
心配そうに見つめるその表情に、私の心臓が小さく跳ねた。
「あっ、あの……」
やましいことは少しもない。だのに、次第に早くなる鼓動を鎮めることができなかった。
「篠井さん、私は……」
「部屋に戻って、コーヒーでもどうですか?」
そう言った篠井さんは、私が並ぶのを待って、ともに階段を下り始める。
ただそれだけだ。
それだけなのが、とても心地よい。
「──篠井さん」
「はい」
「時々、隣にいてもいいですか?」
突然飛び出した言葉に、私自身が驚いた。
何故、このようなことを言ってしまったんだろう?
他意なんてあるはずもない。そう言った心とは、しばらく距離を置きたかったのだから。
本当に、本当に私にはわからなかった。何故、そんな言葉が飛び出したのか。
追い抜いてしまった相手を、恐る恐る振り返る。
私より三段高い位置で立ち止まった篠井さんは私を見下ろしている。
そして、再び私と目が合うと、今度は静かに笑った。
「お好きな時に、どうぞ」
その言葉に私の心はふっと軽くなる。
「ありがとうございます」
そう言って、微笑む。
笑えたことが、とても嬉しかった。
■ ■ ■
うとうとと船をこぎ始めたマーティの手からカップを取り上げ、軽く肩を叩く。「マーティ。ベッドに寝たらどうです?」
「んー? ん……」
わずかに引き開けたまぶたを瞬かせ、私のなすがまま、マーティはベッドにごろりと転がった。
「コーヒー」
「テーブルの上ですよ」
「飲む……」
「後でいれなおしますから、今は眠りなさい」
「ん……」
わずかに身じろいだマーティは、引き寄せたブランケットにくるまると、穏やかな寝息を立て始めた。
それを見届けた私は、持ったままだったカップを見下ろす。
屋上から戻ってきたマーティは、腰を下ろした途端、やけに目を擦っていた。今まで緊張の糸が張りっぱなしだった日々を過ごしていた分、気持ちが弛んだのだろう。寝不足気味だったこともあって、眠気が一気に襲ってきたに違いない。
すぐにでも眠りたかったのだろうが、律儀にコーヒーができるのを待ってくれていた。しかし眠気には勝てなかった、というところだろう。
「──笑っていてくれるなら、それでいいんです」
誰にともなくつぶやいて、小さく息を吐く。
それは、幸せに満ちた吐息以外の、なにものでもなかった。
― 了 ―